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Re: 加賀野井「メルロ=ポンティを読む」
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□投稿者/ うましか -(2023/07/16(Sun) 23:21:13)
| ■No31801に返信(うましかさんの記事) > ◇ 加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」(白水社のwebマガジン「web ふらんす」) > > ・https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/536 > > バックナンバー > > 第1回 多摩都市モノレールと「ああそうか体験」 > 第2回 失楽園と始源へのノスタルジー > 第3回 「知覚」への投錨と「地の上の図」 > 第4回 「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」 > 第5回 「神の盲目」と「アリストテレスの錯覚」 > 第6回 アヴェ・ヴェルム・コルプス ─ 演奏家と身体と眠り ─ > 第7回 他者はどのようにして認識されるのか ─ 記号解読と幼児のほほえみ ─ > 第8回 あなたの痛みで私は泣いていた ─ 他者と癒合的社会性をめぐって ─ > 第9回 メルロ=ポンティとジャック・ラカン ─ 鏡像段階をめぐって ─ > 第10回 知覚から言語へ ─ 二人の間に、偶然にも愛の言葉がもたらされたら ─ > 第11回 偏倚を示す哲学者のスタイル ─「駆け抜ける悲しみ」から「器官なき身体」へ ─ > 第12回(最終回) 「我、アルカディアにもあり」 ─ メルロ=ポンティのノスタルジックな優しさ ─
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>第8回 あなたの痛みで私は泣いていた ─ 他者と癒合的社会性をめぐって ─
・https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/1378
この回、興味ぶかいですね(;´・ω・)
>幼児は、自律した「私」として意識的に世界との関係を取り結ぶはるか以前から、匿名の私として、その身体図式を整えながら、世界に住みつき、世界を世界たらしめつつ、すでに決定的な形で世界に関わっている。身体図式の未整備な私は、まだ統一的な意識によって住まわれてはいないし、この皮膚内に閉じ込められてもいない。おかげで、幼児はやすやすと他人の生を生きたり、同時に複数の存在であったりすることができるのだ。他の子供の傷口を見ながら、それを自分の痛みと感じて泣いてしまったり、自分が幾人もの人間になって互いに話をしてみたり、事例をあげればきりがない。幼年期は、まずはこうした自他未分化の状態から始まるわけだが、ワロンはこれを称して「癒合的社会性sociabilité syncrétique」と呼ぶ。<
うましかとしては、「匿名の私」というのは過剰な感じがします。
先ず固有名が与えられる。これは或る意味、先験的。与えられた固有名に指示されること、ここで「Nは私である」→「私はNである」、、、とか(;´・ω・)チガウカナ
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