□投稿者/ エフニ -(2022/10/27(Thu) 01:36:32)
| ■No26876に返信(パニチェさんの記事) > こんばんは、エフニさん。横レス失礼します。 > > ■No26867に返信(エフニさんの記事) >>「私」が唯物論の対象にならないと、前野隆司も言っていましたね。 >>いわく、「独我論を完全に否定することは不可能だ。」 >>科学の対象にならず、科学にかすりもしないというのは、デカルトが心を「延長」を持たない実体としたときからの、公理だったと思います。 >>「延長」を持たない、すなわち、実証・検証が出来なければ、科学の対象になりえませんからね。 > > 同意です。延長を持たないというところが端的に〈私〉や独在論(〈独我論〉)としてのコギトを表してますね。 > 延長を持たず隣人も並び立たない世界の特異点。 > > ■No26868に返信(エフニさんの記事) >>「<私>から心身二元論が必然的に導き出せること。」 >>☆「ミリンダ王の問い」に似ていますが、フランスのカトリック系の実存主義哲学者、ガブリエル・マルセルの主張に、大いに啓発されました。 >>もちろんマルセルは、心身二元論、独我論とは違った結論に至っています。 >>マルセルの主張は、所有対象と所有主体の関係についてのものでした。 >>所有対象は所有主体の外部にあります。 >>「私の身体」「私の生命」は、日常使われる言葉で、意味するところ、身体や生命は「私」の所有対象であるということです。 >>これも日常、異論なく意味されています。 >>身体や生命が、<私>の外部にあるとしたら、<私>はいったい何処に存在しているのか。 > > ここ、エフニさんの意見も聞きたいところです。 > パニチェはマルセルの所有対象と所有主体の関係を言い出した時点で既に心身二元論が前提となっている、もしくは自明となっている。 > 〈私〉から二元論が導き出されるベクトルとは逆の方向だと思います。 > 何故なら自明なのは〈私〉であって心身二元論ではないからです。(この言い回しは分かりにくいかもしれませんが。。。。^^) >
パニさん、こんばんは。
マルセルは<私>への関心は薄く、関心が薄いとは、つまり「心」との区別をしていなくて、延長がないものが存在するということ、延長がないものが何かを所有するということに、主な関心があったと思います。
この時にあえて「心と私」を区別していません。
ですが私(エフニ)は、この二つを区別して、<私>を「心」の上位に持って来ています。
「無門関」第四十一則 「達磨安心」
いわゆる、「慧可断臂」の公案では、禅を創った二人の天才は、心と私、を分けているように思えます。
慧可は「私の心」を問題としていて、心は私の所有対象となっています。
達磨も、慧可の心、慧可の所有する心を出してみろ、と迫っています。
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