□投稿者/ pipit -(2022/09/30(Fri) 21:35:00)
| おくたがわさん、こんばんは! とりあえず今の段階のpipitの読解を投稿します。 No26745で載せてくださった >Deeple翻訳<を分節化してみました。 間違えてたらご指摘くださいm(_ _)m
@一般論理は、認識のすべての内容から抽象する。
A 一般論理は、対象とのすべての関係から抽象する。
B 一般論理は、認識の相互の関係における論理形式のみを考慮する。
C 一般論理は、思考の形式一般のみを考慮する。
D純粋な見方と経験的な見方がある以上、対象物に対する純粋な思考と経験的な思考の違いも見出されうるだろう。
Eこの場合、知識の内容をすべて抽象化しない論理が存在することになる。
Fなぜなら、ある対象を純粋に考えるための規則だけを含む論理は、経験的な内容をもつすべての認知を排除することになるからである。
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@の否定がEになっているので (@ 認識のすべての内容から抽象 E知識の内容をすべて抽象化しない) @ABC=一般論理学 / Eの論理学 となります。
Eが存在するのは、Dの場合。 D 対象物に対する純粋な思考と経験的な思考の違いも見出されうる、場合にEの論理学が存在することになる。
Dの違い(純粋と経験的)が見出せるときEの論理学が存在する理由は、F
(純粋と経験的 の違いが見出せる時)F ある対象を純粋に考えるための規則だけを含む論理は、経験的な内容をもつすべての認知を排除することになるからである。 ↓ 純粋だけを含む論理学=@ABC が排除する 経験的を含む論理学=E
ということで、 中山元先生の訳 『一般論理学は、認識のすべての内容を切り捨て、認識と客観との関係をすべて無視しながら、認識相互の関係の論理的な形式、すなわち思考一般の形式を考察するのである。ところで直観に、純粋な直観と経験的な直観の区別があるように、[論理学において]対象について考察する場合にも、対象についての純粋な思考と経験的な思考の区別があることになろう。その場合には認識のすべての内容を切り捨てない論理学も存在することになろう。というのは、対象の純粋な思考の規則だけを含む論理学[一般論理学]で排除されるのは、経験的な内容からなるすべての認識だからである。』 (『純粋理性批判2』p25.26より引用)
の[一般論理学]という中山先生の補足は、pipitは今のところ、間違いではないのでは?と思いました。
pipitのこの投稿についておくたがわさんはどのような感想もたれますか??
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