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No21649 の記事


■21649 / )  Re[52]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 15:04:56)
    No21628、ありがと、pipitさま。

    いろいろ考えて見たんだけど、そこんとこと、カントのわたしの書いて見るね。

    抜粋してもらったカントの文章を“わたし”に焦点を当て見て見たのね。
    ここには訳者?の表記の仕方として4つに分けられている気がする。

    (1)わたし
    (2)「わたし」
    (3)[わたし]
    (4)〈わたし〉

    カントの文章の“わたし”にこの番号をつけて見たよ。
    (a)
    『だからわたし(1)はデカルトのやったように、自分の現存を、「わたし(2)は考える」という命題から推測することはできない(これが推測によるものだとすれば、その前に「思考するものはすべて現存する」という大前提が必要となるだろう。』
    『わたし(1)』=カント。
    『わたし(2)』=デカルト。
    デカルト“が”「わたしは考える」って言ったのよね。
    ここに『自分』っていうの出てくるけど、わたしこれ、〈○○の自分〉ってして見た。デカルトの自分、カントの自分、pipitさまの自分・・・みたいなのね。『自分の現存』は、〈デカルトの現存〉〈カントの現存〉〈pipitさまの現存〉・・・っていうことになるのかな?あ、これはここでは取り扱わないことにするね。

    (b)
    『「わたし(2)は考える」という命題と「わたし(?)は現存する」という命題は、同一の命題である。この命題が表現しているのは、経験的で未規定な直観なのであり、知覚なのである(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたし(3)の]現存を主張する命題の根底にあるということである)。』
    『わたし(?)』は分かんないけど、「現存する」を〈存在する〉ってして見ると「わたしは存在する」ってなるから、これもデカルトが言ったこととして見て、『わたし(?)』は『わたし(2)』ってしとく。
    ここに[わたし]が出てきてるよね。
    『経験的で未規定な直観』=「知覚」=『感性に属する感覚』によるものとしての“わたし”を[わたし]と表記しているって見たよ。
    簡単に見て、〈経験による感-知覚によってもたらされた“わたし”〉を[わたし]。

    (c)
    『ここでは未規定な知覚とは、たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけであり、現象として与えられたものではないし、物自体(叡智的な存在/ヌーメノン)として与えられたものでもない。』
    『経験的で未規定な直観』=「知覚」=『感性に属する感覚』、これを簡単に〈経験的な感-知覚されたもの〉ってしちゃうよ。〈経験的な感-知覚されたもの〉は、『たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけ』ってカントは見てるのね。

    『現象として与えられたものではないし、物自体(叡智的な存在/ヌーメノン)として与えられたものでもない。』
    カントのいう『現象』っていうの、中島さんによると、「正しい現れ」っていう意味で使ってるみたい(誤った現れを仮象として区別している)だから、そう見とく。
    で、
    〈経験的な感-知覚されたもの〉は、『たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけ』であり、かならずしも〈それ〉は、思考に〈正しい現れ〉として与えられてるのではない。っていってるのかな?

    『物自体』っていうのが「叡知的な存在」という意味だとはわたし知らなかった。

    『ただ実際に現存し、「わたし(2)は考える」という命題において、そのようなものとして提示された何かとして与えられているのである。ここで注意する必要があるのは、わたし(1)は「わたし(2)は考える」という命題を経験的な命題と呼んだのだが、そのことでわたし(1)は、この命題に含まれるわたし(1)が、経験的な像であることを主張しようとしたけではない。この〈わたし〉(4)は思考一般に属するものであるから、これは純粋に知的な概念なのである。ただ思考の素材となる経験的な像が存在しない場合には、〈わたしは考える〉という心的な作用も生じないはずである。要するに経験的なものは、純粋な知性的な能力を適用し使用するための条件に過ぎないのである。』
    ここに〈わたし〉が登場してくるよね。

    「わたしは考える」と〈わたしは考える〉というように、異なる表記で両者が区別されてるんだと思う。
    じゃ『この〈わたし〉』ってどういうのかしら?
    〈わたし〉=『思考一般に属するもの』『純粋に知的な概念』 かな。

    まとめると、
    (1)わたし=カント
    (2)「わたし」=デカルト
    (3)[わたし]=経験的で未規定な直観、知覚、感性に属する感覚よるもの
    (4)〈わたし〉=思考一般に属するもの、純粋に知的な概念

    (b)に、
    『(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたし(3)の]現存を主張する命題の根底にあるということである)』ってあるから、
    カントは、デカルトの「わたしは考える」の“わたし”というのを[わたし](経験的で未規定な直観、知覚、感性に属する感覚におけるもの)として見ている、っていうことじゃないかしら?
    それに対してカントの「わたしが考える」は〈わたしは考える〉であって、〈わたし〉(思考一般に属するもの、純粋に知的な概念)として見ている、っていうことじゃないかしら?

    簡単に見ちゃうと、
    カントは、デカルトにおける「わたしは考える」の“わたし”は[わたし](経験によるもの)である。
    って見てて、
    一方、カントの場合、〈わたしは考える〉の“わたし”は〈わたし〉(経験によるものではなくて、純粋に知的な思考一般に属すもの)としている。
    って見ちゃったよ。

    いずれにしても、デカルトもカントも、「考える」っていうことを「私」の精神の真ん中に置いてる、っていうことのように見える。
    でも、わたし、身体もってるし、わたしの精神は考えることだけじゃなくて、感じることもしてるん。

    pipitさまがカントの抜粋してくれたところ、“わたし”に焦点を当てて見て見たんだけど、どうしてかっていうこと、長居しちゃったから、Whatのところに書いとくね。

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