□投稿者/ pipit -(2022/03/18(Fri) 00:36:14)
| 2022/03/18(Fri) 07:05:19 編集(投稿者) 2022/03/18(Fri) 00:50:45 編集(投稿者) 2022/03/18(Fri) 00:39:01 編集(投稿者)
悪魔ちゃん、こんばんは!
No21504 >で、わたしがpipitさまに聞きたかったのは、二つあるの。 (1)第一版から第二版になるとき、カントは心変わりしたのかな? (2)『純理』(第一版、第二版関係なく)は、カントの根源的出発点として、〔それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない〕っていうのがそもそもあったのかな? っていうこと。 もし、(2)だとしたら、カントの『純理』は、デカルトのが根本にあるのかな?って思うのね。<
(1)については、 No21568で引用したから、次は(2)の質問にチャレンジしてみるね。 とりあえずカント自身は、自分はデカルトとは違うと言ってるみたい。 引用するね。
(カントの文章) 『だからわたしはデカルトのやったように、自分の現存を、「わたしは考える」という命題から推測することはできない(これが推測によるものだとすれば、その前に「思考するものはすべて現存する」という大前提が必要となるだろう。』 『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p137、B423あたり
めっちゃ誤解してるかものpipitの私見読解で書くね。
カントのデカルト解釈は、 『我思う、ゆえに、我あり。』 を成り立たせるためには、三段論法にあてはめると、 大前提(思考するものはすべて現存する。) 小前提(わたしは思考する。) 結論(ゆえにわたしは現存する。) の大前提が成り立っている必要があるけど、その原理が証明されているわけではないから、 この論法を、カントとしては使えないと言ってるのかと。
カントは、わたしは考える、は、わたしは現存する、と同一のことを表現してるにすぎなく、しかも、実体としてのわたしの現存ではなく、知覚が表れてるなにかがあるという意味での現存とイコールの命題に過ぎない、と、言ってるのではないかと。
(カントの文章) 『「わたしは考える」という命題と「わたしは現存する」という命題は、同一の命題である。 この命題が表現しているのは、経験的で未規定な直観なのであり、知覚なのである(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたしの]現存を主張する命題の根底にあるということである)。』 同本p138、B423あたり
それで悪魔ちゃんの
>(2)『純理』(第一版、第二版関係なく)は、カントの根源的出発点として、〔それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない〕っていうのがそもそもあったのかな?<
についてなんだけど、思考する際には不可避として関係づけられてくる宿命のような関係性として置かれてるのではないかと。
感性による経験的な像について知性が思考する、その時に思考の領域に属する(わたし)が出てくるということかと。
(カントの文章) 『ここでは未規定な知覚とは、たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけであり、現象として与えられたものではないし、物自体(叡智的な存在/ヌーメノン)として与えられたものでもない。 ただ実際に現存し、「わたしは考える」という命題において、そのようなものとして提示された何かとして与えられているのである。 ここで注意する必要があるのは、わたしは「わたしは考える」という命題を経験的な命題と呼んだのだが、そのことでわたしは、この命題に含まれるわたしが、経験的な像であることを主張しようとしたわけではないということだ。 この〈わたし〉は思考一般に属するものであるから、これは純粋に知的な概念なのである。 ただ思考の素材となる経験的な像が存在しない場合には、〈わたしは考える〉という心的な作用も生じないはずである。 要するに経験的なものは、純粋な知性的な能力を適用し使用するための条件に過ぎないのである。』 同本p138.139、B423あたり
感じたものは現存する、感じたものを考えるとき〈わたし〉もある、って感じかな。 カントの場合は、感性と知性を線引きしすぎ(割り切りすぎ)かもしれないね。
いろいろ誤読してたらごめんね!
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