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(第三章 批判と二つの視点)再び
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□投稿者/ pipit -(2022/02/09(Wed) 11:11:03)
| みなさまこんにちは (^ ^)
むむむ、No20590 に引用した山下先生の文章(下段に再掲します)では、1ー4の規定がカントによる規定に思ってたけど、 実際のカントの文章見てみたら、 それはそうなんだけど、事情は少し複雑で、 パラロギスムス(誤謬推論)を考察する章の中で、『私は考える』という命題を【経験的命題】と受け止めた場合、(それ以外の場合分けも載ってます) 人間がどのように考えてるのか、について考察するために、カントのカテゴリー表にあてはめて論筋を追ってみたっぽい規定かもです。
経験的命題ということで、現実性のカテゴリーを含む[様相]から思考を主発点として、 1[様相] ↓ 2[関係] ↓ 3[質] ↓ 4[量] と、御子柴善之先生は解説されていました。 (『カント純粋理性批判』p443参照)
まあ、でも、カントの思考回路でもあるわけだから、 山下先生の
>この私は、私の思惟のすべての状態において同一的な、単純な主観として思惟する私である。 もちろん、こうした規定からこの私が独立した実体であると結論するような推論はパラロギスムスであって許されない。 しかしながら、カントの与えている規定だけですでに十分である。 カントはこの規定をどこから得たのだろうか? それについてカントは何も述べていない。 それは「単純な自己意識によって」(B420)と言われるにとどまっている。<
は、きちんと記述されてるといえばされてますか、ね。 結局、pipitが勝手に勘違いしてただけですね m(_ _)m
山下先生本の読解続けてみます!
その前に No20590の再掲です↓ ================= No20590 の再掲 >なんか構成がわたしには把握しずらいんだよね。。。 そのうち慣れてくるかな??(期待)
p42で、山下先生は、 純粋統覚の「私は・・・と考える」の「私」は何なのか? と問いかけ、続いて、カントの第二版でのパラロギスムスに出てくる規定を引用されます。 パラロギスムスって? また明日カント事典でも見てみます。。。(ー ー;)
んー、わからん。 とりあえず引用だけでもしておきます。
『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p 43 『この純粋統覚における私について、第二版のパラロギスムスは次のような規定を与えている。 「1.私が考える。2.主観として。3.単純な主観として。4.私の思惟の全ての状態において同一的主観として」(B419)。 この私は、私の思惟のすべての状態において同一的な、単純な主観として思惟する私である。 もちろん、こうした規定からこの私が独立した実体であると結論するような推論はパラロギスムスであって許されない。 しかしながら、カントの与えている規定だけですでに十分である。 カントはこの規定をどこから得たのだろうか? それについてカントは何も述べていない。 それは「単純な自己意識によって」(B420)と言われるにとどまっている。 その上、そうでありながらも、我々はカントのこの議論を否定できない。 それはなぜなのだろうか?』
で、次の『第三節 現象と物自体を区別する者』に続いていきます。
どのような道筋で記述されていくのかなー?< ================= 再掲終了
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