□投稿者/ pipit -(2021/11/19(Fri) 16:42:50)
| 2021/11/19(Fri) 16:45:26 編集(投稿者)
うましかさん、こんにちは!
■No19098 > 中山元訳第3巻の中山による段落番号369〜371、目を通してみましたが、私がまだ感性論でうだうだしているレベルなので、内容が細かすぎて???です。ただもう少し遡ってみると、中山段落番号348(p.260)あたりからライプニッツについて論じているのでおもしろそうだとおもいました(;´・ω・)<
はいー、なんか細かーーーーーーいですよねー(^^;; ライプニッツに対する言及のとことかちゃんと理解してないんですけど、そのうち理解できたらいいなー、おもしろそう、と、pipitも思ってます。
> ところで、私が > > >… それにもかかわらず、十分に注意されなければならないことであるが、私たちがまさにこの同一の諸対象を諸物自体そのものとしても、たとえ認識する≠アとはできないにせよ、それでも少なくとも思考する≠アとはできるにちがいないということは、やはりそのさい常に保留されている。なぜなら、さもなければ、現象はそこで現象する或るものなしで存在するという不合理な命題が、そこから生ずるであろうからである。< > > → 原佑訳上巻、p.57 > > で気になっているのはなぜかというと、もしカントが上で「対象は物自体として思考はできる」と考えているとすれば、カント認識論?の関心とはズレるかもしれませんが、カントの「認識するerkennen」と「思考するdenken」の区別、「認識する」に対する「思考する」の位置づけはどのようなものなんだろう?とおもうからなのでした(´;ω;`)ウッ…<
めっちゃシンプルなところで言えば、感じたものを考えて認識としてる、がカントの考え方なのではないかと思っています。 感じたもの、がないところで、思考だけしてると二律背反になったりすると言ってるんじゃないかなーと今のところ思っています。
カントの認識論の大枠については、中山先生の第2巻の冒頭がわかりやすいんじゃないかなぁとpipitは思いました。 第2巻p17、独自段落番号で言えば、 081 082 あたりです。
思考については、第2巻p49 102 が面白そう、と、pipitは思っています。
> 物自体は認識はできないが思考はできる、、、とすれば、物自体について、私自身、不可能だと考え過ぎていたかもしれないのかな?、と。 > > > 朝から沼〜(/・ω・)/ > > 【追記】 > > いま、Wikipediaの「ヌーメノン」をみていたら、語源的なギリシャ語の「ヌース」に由来する、「考えられたもの」という意味があるとありました。カントのいう「物自体は思考できる」の「思考」は、これと関連するのかな…?(;´・ω・) > > 暇になったらもうちょっと調べてみよっと(/・ω・)/<
ヌーメノンとか絡めての解説が、 『カント哲学の核心』御子柴善之先生著、p159から載っていました。 御子柴善之先生の解説文章でいえば 『悟性は、この事実を見抜きつつ、現象はまさに現象であるから、何かの現象であるはずだと〈考える〉。』p161 と解説されてて、 ここら辺ちょうどうましかさんの疑問あたりへの言及になってないかな?と改めて今思いました。
> > > https://de.wikipedia.org/wiki/Noumenon (゚Д゚; ) うわぁぁ!! ← 謎の叫び<
ドイツ語やったーーーーーぁ (;o;)
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