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No18849 の記事


■18849 / )  Re[83]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 19:03:29)
    なんか、いいこと思いついちゃった〜、かな?

    pipitさまのところで、たしか、うましかんだったと思うんだけど、紹介してくれた、圓谷裕二さんの「カントの超越論的哲学とメルロ=ポンティの現象学の比較研究」(a)
    のなかで、
    「身体なしに思惟する自己意識」っていうのがあって、なんかおもしろい表言だな〜、って。
    このとき、「自己意識」ってなあに?って思ったんだけど、〈自己の意識〉、意識のうちには〈自己〉っていう場がある、ってして見て、わたしのいい方では「自己意識」じゃなっくて〈我意識〉ってなるんだけど、ま、これはいいわ。

    でね、ちょっと思ったんね。
    No18782でわたし〈身体のある私〉(私のうちに身体を含めるっていうこと)ってして見たんだけど、これに対して、『論考』のウィトちゃんの「私」っていうの、〈身体のない私〉なんじゃないかって。

    こう思いついたわたしがね、
    No18506(2-p82)の5・631で、わたしが勝手に見た、【これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である】は、〔これはすなわち〈私の身体〉を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において〈私の身体〉が存在しないことを示す方法である〕ってなったところを見て見ると、よくわかんなかったんだけど、
    ウィトちゃんの言う「私」っていうのを〈身体のない私〉ってして見たら、なんかそうなのかもね。

    私について見ようとするとき、私を〈身体のある私〉としているのか、〈身体のない私〉としているのか、で見るの、いいかも。

    圓谷さんによれば、カントの、「身体なしに思惟する自己意識」ってして見てるようだし、ってすると、わたしの見方で、カントの『純粋理性批判』は〈身体のない私〉って見られるのね。カントの「純粋な」よね?身体が入り込む余地なし、っていう感じなんじゃないかって?
    あと他にデカルトの「我考える」も〈身体のない私〉かな。
    いま見たように、ウィトっちゃんの『論考』のなかに出てくる私も〈身体のない私〉って見ることで、わたしとしては了解しちゃったよ。

    メルポンのは当然〈身体のある私〉のほうね。

    ひと段落、っていうことで、今日のわたしの物語りは、
    おしまい、おそまい〜、ってね。

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