□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/06(Sat) 20:01:54)
| 以下に述べるのは、このトピでのP氏とのやりとりの、十分に言っていなかったことの簡単な補足。ウィトゲンシュタインと切り離して述べるから、わかりやすいかも。 返信不要。
【「先言の〈私〉」について】
「先言の私」というのは、言語主体、すなわち「語る私」を実体化し(デカルト的自我「考える私」のヴァリエーション)、 その主体が言葉を有するのは、その前に、言葉を持たない主体が存在して言葉を習得したからでなくてはならない、という根拠なき因果律の適用(∵“私”が実体でないなら、適用不可)により、存在すると思い込まれた単なる錯覚に過ぎない。
以上の見解の根拠となるP氏の主張を、一応以下に掲げる。 因果関係の思考ではないと言っているが、それ以外のなにものでもない。 そして最後の文。逃げの言い訳(しかも間違っている)。 ******************* (引用) 哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 8 No17554 >> 直知の対象があるから、直知する主体がある、という因果関係の思考ではないのですか? >そうではないと思います。 >因果関係もそうですが、思考って言語的になされますよね? >〈私〉は言語に先んじて(言語を覚える前から)存在する主体です。 >これなくして言語の習得や普遍文法の習得はありえません。
<私> の哲学 13.無我説と〈私〉 >先言の〈私〉は言葉に先立つ〈私〉。 >つまり、言語学習をする主体者にして、言語学習以前に存在する〈私〉のこと。 >言語習得後のエピソード記憶(言語的記憶)によって(物心がついた後に)形成される自己連続的(自己統一的)かつ自覚的な「私」は〈私〉とは異なる存在。 >あるいは重層的構造をイメージした場合には、基底なる〈私〉の上に「私」が形成されると考えた方が妥当であるように思う。
哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 9 No18251 >五識で考えるより、ポイントを絞り「先言」の字面通り、言語と〈私〉で考えた方が分かりやすいです。 >上記と同じように言葉に先んじた主体がなくして、一体どうやって誰が言語を習得できるか、ってことになります。 >但し、これは「先言」を説明しているだけの言葉となり、おそらく万人に共通するであろう「先言的な主体」の説明でしかありません。 *********** 逃げのゴタクは要らない。 根拠を提示するだけでよろしい(他人には根拠となる文を引用しろと要求するくせに)。 提示できないなら、それは正しく独断論ってこと。 カンタンな話。
以上。
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