□投稿者/ pipit -(2021/10/30(Sat) 18:13:11)
| うましかさん、こんにちはー 書き込みありがとうございます!
No18063 > 全てが自身との関連"において"起きるという「自律性」と、これを「自己言及(self-referring)」システムとする考えが気になります(;´・ω・) > > この考え自体はいったいどうやって思いついたのだろう?<
うましかさん、山下先生の『カントとオートポイエーシス』購入されたのですね! 沼ー (o^^o)♪
No18066 >オートポイエーシス論は、1970年代に生物学者のマトゥラーナと弟子だったヴァレラによって提唱されたようですが、後年ヴァレラ他の研究者が書いた著作に『身体化された心』(田中靖夫 訳、工作舎、2001年)があるようです。 pipitさんはおそらく持っておられるんじゃないかな、と(;・∀・) サブタイトルが「仏教思想からのエナクティブ・アプローチ」です。(※「エナクティブ」って「行動化」と訳すそうです,p.18参照)<
わたしは『身体化された心』は読んだことないんです。 オートポイエーシス論も全然詳しくなくて、山下先生の本をつぎはぎ読みしてる超初心者な感じです。 (/ _ ; )
もしかしたらオートポイエーシス論は論としては確定されてないのかなぁという感想ももってきます。 第一人者の河本英夫先生でさえ『正直に言うと、最近になってようやくオートポイエーシスの理論がなんとかわかってきたという気がしているんです。と言っても、今の理解度は40%くらい、死ぬまでに50%を越えるくらいは行けるかなと思っています』(2008年)と発言されてる記事を読みました。 ( ̄▽ ̄;) https://www.brh.co.jp/publication/journal/058/talk_index.html
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ちなみに、わたし、昨日、目を瞑って自分が一つの細胞になったつもりになってみたんです。 『わたしは目も見えない一個の細胞。。。』モゾモゾ
目をとじながらモゾモゾ動きながら思ってたことは、 感覚が生じてて、それで内『自分』と外『自分以外』いう把握の仕方をしてる? 何かが触れると、それが食べ物だと判断すると、多分、食べる。 すべては『自分』にとっての行為となる。for me. (まあ、わたしは人間なので、細胞ちゃんの気持ちは結局は全く理解できてないのかもですね。。。といま、少し寂しくなりました。。。)
自己言及は、わたしがわたし自身を把握して、その把握により、わたしの在り方がまた変わっていくことについて述べてるイメージなのかなあ?とわたしは今のところ思っています。 違うかもなんですけど、自分でアウトプットして、自分にインプットの回転が続いていくイメージも持ってます。
わたしは見た(像のアウトプット)→わたしは見たから(像のインプット)→わたしはドーナツ食べたくなった(気持ちのアウトプット)→わたしは食べたくなったから(気持ちのインプット)→わたしは手を伸ばした(行為のアウトプット)→・・・
つねに、変化する自己自身と関連しながら、自己自身の働きを維持していく 自分でアウトプットして、そのアウトプットを自分で食べて(インプット)、また自分でアウトプットする。
もしくは、すべては『自分が』という自己言及として生じる。 見られたものは、わたしが見た、とイコールに考えるようになっている。
こういったことを、山下和也先生のオートポイエーシス論を読みながら思い浮かべてますが、全然勘違いしてるかもなので、勉強したいと思います。 o(・x・)/
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