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No18071 の記事


■18071 / )  非二元と〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/30(Sat) 08:46:06)
    2021/10/30(Sat) 08:55:06 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。

    No18059に返信(みのりさんの記事)

    > それと、二度手間をおかけしてすみませんでした。

    いえいえ、とんでもありません。私のミスです。^^;

    > 誰であっても、自らの価値を自ら創造して生きている、つまり、その人の世界はその人自身が創造したものである、ということでいいのかな。

    そうです。

    > こうしたことについて私は、コインの表としてはその通りと思うんですね。
    > ただ、裏もあるよと、ほんとのところ、私は、ニーチェより親鸞型なんです。
    > コインの裏側視点から言うと、自由意志もないと普通に考えています。
    > 表(個が存在する考え方)では、当然、自由意志が当たり前ですし、私の中ではですが、どちらも両立して考えています。

    帰依(帰命)とか全面的に委ねるということでしょうか?
    もしそうだとすると委ねる対象は全体運動あるいは宇宙(例えで言うなら大海原)ってことになるのでしょうか?

    > 私もそうなのですが、パニチェさんもおそらく、何かに没頭しているとか何気に生活していて「私」を特に意識してなくているような時でも観照状態でいることが当たり前なのだと思うのですね。
    > これはつまり、リラックスしながらもいつも気づいてるということです。
    > 私が思うに、普通に暮らしていく分には、悟りや見性を認定してもらうより、こうしたことのほうが役立つと思います。

    なるほど。

    > そうなんですね。 そうなんですね、とは言ってみたものの、実はそれがどういうことかはまったくわかりません。(^▽^;)
    > パニチェさんの〈私〉については私はよくわからないですが、パニチェさんご自身は真我や気づきから離れたことはないというふうに、みのり的には考えますよ。
    > (あくまで、みのり的にはそう思うということです。)

    > 上で触れた観照状態、それにいつもあるということは、自分のところで真我、気づきと離れていない、ということです。
    > 実は誰でもが離れていないんですが、厚く溜まったごちゃごちゃした思考によってその姿がすっかり隠されてしまい、働くことが難しくなってるんです。
    > 自分の身体の中にそういうものがある、と考えている間は正確な気づき、真我とは違うといえば違うのですが、非二元の探求をする人たちはそこを足掛かりにしていきます。
    > ですので、万が一にも(^▽^;)、パニチェさんがその探求を本気でしようと思われたら、多分しばらくして本当の意味での真我、気づきも理解されると思いますよ。
    > これについては、興味なければまったくのスルーでお願いします。

    思いっきり興味ありますし、みのりさんの言うことはこれまでの書籍とか覚者から聞いた話などなどから(直接経験上ではなく)理屈上では分かります。
    ここ正直かつ忌憚なく現状のパニチェのスタンスというか探究途上の報告をしますと。。。

    パニチェが底が抜けてないという可能性と同じく、ひょっとすると実相はやはり〈私〉であり、非二元や不二の方がある種の変性意識状態(オルタードステイツ)である可能性も否定していません。

    この発想って、ヴェーダーンタ学派から数えればおそらく数千年受け継がれている見性に楯突くことにもなりますが、パニチェにとっては人格神(有神論)を懐疑しペンディングしているのと同じです。

    仮に〈私〉が実相であるとするなら、非我は言語によって創出される「私」は本来の〈私〉ではないという意味での非我となり、無我は同じく言語によって創出された「私」には実体が無いという意味での無我だと考えます。

    粗っぽく言えば三昧にあっても、気づきであっても、〈私〉は「在る」ということです。
    これなくして気づきも三昧もないみたいな発想です。

    そしてこれも仮の話ですが輪廻転生があるとするならその主体が〈私〉ということになります。
    無我や不二や非二元は輪廻転生をどう説明するのか?パニチェは矛盾すると今のところ考えていますが、もちろん、輪廻転生など無いという可能性も否定はしていません。
    ただ〈私〉が直接経験としてある以上、説明は言葉では難しいのですが、二元論ってことになります。

    > 世界内ではない、ということと(パニチェさんのおっしゃる)、例えばですが、「どこにあるここにあるとその存在の位置を言語化して示すことは不可能」というのは、まったく違いそうですか?
    > ちなみに、「  」内は、気づきについてなのですが・・。

    いえ、違わないです。今のところは「どこにあるここにあるとその存在の位置を言語化して示すことは不可能」としか言いようがありません。

    > 私の眼の位置から開闢する世界は、私が創造したものである、ということなのかな。

    これは少し違いますね。
    創造している(認識によって価値や意味を創出)のが言語的な「私」であって〈私〉ではないですね。
    〈私〉はただ見ている感じているだけの独在論的存在で、意味や価値を創出できるような衣装(例えば言語や思考)を纏っていない裸の特異点です。

    > 非二元(=アドヴァイタ)では、一つのスクリーン(一つの気づき、意識)に対して無数の人間の数だけの映画が上映されてるイメージですが、独在論的には、映画は自分の分ただ一つだけで、書かれているようにそれ以外のことについては考えに入れないということですね。
    > 独在論的には、他者というのはどうなりますか?
    > 存在しない、となるのですか?

    無数の人間を想定するのは二次的な認識であって、〈私〉が見ている世界内の他者は世界内にある物や現象と同じで〈私〉と同列の存在ではありません。
    極論すれば他者にも〈私〉のような存在や私秘性があるのかどうかは不可知です。
    もちろん上記は〈私〉に関する哲学的な探究上の話であって、(以前にpipitさんにもレスしましたが)日常的には迫ってくる車を避けるようなリアルさでもって他者の心や〈私〉もあると普通に思っています。

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