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Re[27]: クオリアと〈私〉
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□投稿者/ みのり -(2021/10/29(Fri) 07:59:18)
| 2021/10/29(Fri) 12:37:46 編集(投稿者)
パニチェさん、レスありがとうございます。 それと、二度手間をおかけしてすみませんでした。
■No18033に返信(パニチェさんの記事)
>>自らが世界を創造していけるのだ、という視点というか理想的な考え方に立てればその通りだと思います。 >>困難、苦悩さえも成長の糧と前向きに考えられるような。 >>しかし、実際には、個人だけではなかなかどうすることもできない環境にいたり、問題を抱える人々がとても多く、苦悩が多いままで右往左往せざるを得ない人々が多いと思います。 > > え〜っと多分ニーチェが言ってることはもっとシンプルだと思います。 > ニーチェは「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」としていることから、そのことに気付いている、気付いていないはともかく、認識それ自体が価値を創出し続けているってことだと思います。認識する全てに価値を付与、あるいは創出しているのは生のど真ん中に存在する自己であり、これを突き詰めれば世界は自己によって創造されており、対立物など存在しないという主張ですね。
誰であっても、自らの価値を自ら創造して生きている、つまり、その人の世界はその人自身が創造したものである、ということでいいのかな。 こうしたことについて私は、コインの表としてはその通りと思うんですね。 ただ、裏もあるよと、ほんとのところ、私は、ニーチェより親鸞型なんです。 コインの裏側視点から言うと、自由意志もないと普通に考えています。 表(個が存在する考え方)では、当然、自由意志が当たり前ですし、私の中ではですが、どちらも両立して考えています。
> なるほど。ニーチェのニヒリズムとみのりさんの虚無は肯定的に捉えているところが共通してますね。 > ニヒリズムは無限の創造性に転ずるし、虚無も肯定的に捉えれば悲しむ主体(自己)が滅している楽観性になりうると思います。
偶然にもそうですね。^^
>>別の言い方をしてみます。 思考が立ち上がらないと、今、目の前に見えている様々な個別と通常考えられるもの達も「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」です。 >>これについては、『悟りを生きる』にも書かれている内容です。 >>実体としての「私」がいて何かをする、という世界観ではなく、「今、している経験の中に溶けている私」それが当たり前という世界観です。 >>そう感じる時がある、ではなく、もともとそれが自然なのだけれど、「私」という思考が立ち上がることによって、「私」が○○している、となっている、ということ。 >>包丁で肉を切っている時なら、肉と包丁と切る には当然分離がなく、それらのものと「私」と呼ばれるものも当然分離していなくて、「気づき」にただそれらが現れている。 >>こういうことになります。 >>通常の主語に当たる「私」を主体とするのでなく、あえて言うならですが、「気づき」が主体とも言えると思います。 >>それが「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」の、もう一つの言い方になります。 >>そしてこの後の方の説明の仕方のほうが、本来の非二元の考え方に乗っ取ったものです。 > > ここら辺は理屈では理解できますし、おそらく見性というか三昧というのはそういう状態だろうとは思います(想像します)。
私もそうなのですが、パニチェさんもおそらく、何かに没頭しているとか何気に生活していて「私」を特に意識してなくているような時でも観照状態でいることが当たり前なのだと思うのですね。 これはつまり、リラックスしながらもいつも気づいてるということです。 私が思うに、普通に暮らしていく分には、悟りや見性を認定してもらうより、こうしたことのほうが役立つと思います。
> 現時点でのパニチェの場合のリアルは三昧にあっても〈私〉は独在的な存在であり、世界には溶け込んでいません。
そうなんですね。 そうなんですね、とは言ってみたものの、実はそれがどういうことかはまったくわかりません。(^▽^;)
・・・・・
(クオリアについてこの間の部分については拝読して了解ということで略させていただきます。)
> パニチェは真我や気づきを直接経験していないので、〈私〉とどう違うかは分かりません。
パニチェさんの〈私〉については私はよくわからないですが、パニチェさんご自身は真我や気づきから離れたことはないというふうに、みのり的には考えますよ。 (あくまで、みのり的にはそう思うということです。)
上で触れた観照状態、それにいつもあるということは、自分のところで真我、気づきと離れていない、ということです。 実は誰でもが離れていないんですが、厚く溜まったごちゃごちゃした思考によってその姿がすっかり隠されてしまい、働くことが難しくなってるんです。 自分の身体の中にそういうものがある、と考えている間は正確な気づき、真我とは違うといえば違うのですが、非二元の探求をする人たちはそこを足掛かりにしていきます。 ですので、万が一にも(^▽^;)、パニチェさんがその探求を本気でしようと思われたら、多分しばらくして本当の意味での真我、気づきも理解されると思いますよ。
これについては、興味なければまったくのスルーでお願いします。
>>「気づき」は、存在の基盤として考えていますが、位置などについてはお特定が不可能です。 >>おそらくですが、パニチェさん的〈私〉というのは、身体内に位置するものと考えられているのだと想像しています。(違っていたらすみません。) > > 身体内かどうかはペンディングです。
はい、わかりました。
> 確実に言えることは世界内ではありませんね。
世界内ではない、ということと(パニチェさんのおっしゃる)、例えばですが、「どこにあるここにあるとその存在の位置を言語化して示すことは不可能」というのは、まったく違いそうですか? ちなみに、「 」内は、気づきについてなのですが・・。
> パニチェが理解したみのりさんの〈私〉は阿頼耶識みたいなものに思えました。 > 九識説の阿摩羅識が「気づき」や「真我」であるのに対し個としての種子を蓄える阿頼耶識です。
考えていただいてありがとうございます。仏教でも似たような部分のある観方があるのかもしれないですね。 ただ、唯識とかあまり興味が持てていません。
> ところが阿頼耶識も阿摩羅識も言語によって頽落(変質)するのでパニチェ的には〈私〉ではありえないのですが。。。 > この辺の関係性は、同じような感覚を共有できるクリアと、それが絶対に不可能な〈私〉の関係性に似ています。
そうなんですか。 ちょっとなんだかわからないですけど(^▽^;) ここ、スルーさせてください。
>>スクリーンと映画の喩えの「映画」は、独在論的視点とも関わってくるのだろうな、とは思い、前の投稿でも出してみたりしたのですが、モデルとしてどうですか?、独在論的視点と重なるものでしょうか? >>それともまったく違いますか? > > 独在論的にはスクリーンに映る映画はたった一つであり、それが全てということになります。 > その背後(バックグラウンド)や想像上のことは思考の俎上に載せません。
私の眼の位置から開闢する世界は、私が創造したものである、ということなのかな。 偶然なのかわかりませんが、さっきのニーチェの話とも似てるように思えますし。
非二元(=アドヴァイタ)では、一つのスクリーン(一つの気づき、意識)に対して無数の人間の数だけの映画が上映されてるイメージですが、独在論的には、映画は自分の分ただ一つだけで、書かれているようにそれ以外のことについては考えに入れないということですね。
独在論的には、他者というのはどうなりますか? 存在しない、となるのですか?
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