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真我(ブラフマンとアートマン)
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□投稿者/ みのり -(2021/10/20(Wed) 08:07:01)
| 2021/10/20(Wed) 08:10:14 編集(投稿者)
NO17691の投稿について。 詳細に書ききれていなかった部分があったので、以下の部分を中心として加筆編集しています。 自分の中で明確に把握しきれていなかった部分でもあったので、今回、再確認できてよかったと思っています。 (真我という言葉は、アートマンとしての意味、ブラフマンとしての意味の二通りに使用される。 もともと、ブラフマン=アートマンである。)
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>>これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。 > > ここは探究中です。 > きっと山下良道さんや藤田一照さんなら迷わず〈私〉と真我は同じだと主張されるでしょうね。
あくまで、みのりが考えるにはですが、〈私〉というのは、禅でいう「無位の真人」と同じようなもののように考えています。 (もし、〈私〉が身体の中に位置するものであるとするなら、それが合うと思うのです。)
ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ)も真我という言葉を使うのですが、ラマナ・マハルシの言う真我というのは、身体に閉じ込められているものではないのです。 梵我一如ということで言えば、ブラフマン=アートマンではあるのですが、アートマンは個人の身体内にあるものとされますよね。 ラマナの言う真我というのは、ブラフマンのほうなんです。 そうした意味で、アドヴァイタでの真我と、パニチェさんの〈私〉というのは、また別のものなのではないか、と考えたのです。 (もし、パニチェさんが〈私〉を身体内に位置するものと考えられているならになります。 身体に閉じ込められているものではないとするならば、アドヴァイタ(梵我一如の一形態である)での真我と〈私〉は同じようなものを指す可能性はあるのかもしれません。)
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