□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/07(Thu) 17:24:12)
| このところハイデガーの「世界内存在」を見てるところ。 ハイデガーってあんまり好きじゃないのね、だって顔が怖いじゃん。ん〜ん、フッサールも顔怖いかな。その点メルポンは違う。 で、 No17078のハイデガーの『存在と時間』のつづき。 わたしがタイピングしたところは第12節、第13節。タイピングした一部を書き写しとく。
【内存在とは何を意味するのか。こうした内存在というこの表現を差しあたって「世界の内」での内存在と補って、こうした内存在を「何かの内で存在すること」と解しがちである。この述語でもって名ざされているのは、コップの「内」にある水、箪笥の「内」にある衣類のように、他の存在者の「内」にある存在者の存在様式なのである。水とコップ、衣類と箪笥は、空間の「内」で、なんらかの在りかたを「しめて」、両者とも同じ仕方で存在している。この存在関係は、たとえば、教室の内にある椅子、大学の内にある教室、都市の内にある大学等々といったふうに拡大されて、「世界空間の内」にある椅子にまでいたる。これらの諸存在者が相互に「内」にあるということはこのように規定されうるのだが、これらの諸存在は、世界の「内部」で出来する事物として、すべて事物的存在という同一の存在様式をもっている。特定の場所関係という意味において或る事物的存在者の「内」で事物的に存在することか、同一の存在様式をもった或るものといっしょに事物的に存在することとかは、われわれが範疇的と名づける存在論的性格なのであり、現存在とされるにふさわしくない存在様式をもった存在者に属するような存在論的性格なのである。 これに対して内存在は、現存在の一つの存在機構をさしており、ひとつの実存範疇なのである。だが、そうだとすれば、内存在ということでもって考えられるのは、或る物体事物(人体)が事物的に存在している或る存在者の「内」に事物的に存在していることではありえない。内存在は、いくつかの事物的存在者が空間的に「相互に内にある」ことを意味するどころか、「内」は、根源的には、前記のような様式の空間的関係を全然意味はしない。「内」inはinnan-に由来し、これは、住む、居住スル、滞在するということであり、「で」anは、私は慣れている、何々と親しんでいる、私は或ることを手がけているという意味である。「内」は、私ハ住ミツクとか私ハ敬愛スルという意味での私ハ世話ヲスルという語義をもっている。こういう語義での内存在がそれに帰属しているこの存在者を、われわれは、私がそのつどみずからそれである存在者と特色づけた。私があるというとときの「ある」という表現は「もとで」と連関があり、「私がある」は、これはこれで、私は、何々のもとで、つまり、これこれしかじかに親しまれているものとしての世界のもとで住んでいる。滞在しているということなのである。「私がある」の不定法として、言いかえれば、実存範疇として解された存在〔6〕〔7〕は、何々のもとで住んでいる、何々と親しんでいるということを意味する。したがって内存在は、世界内存在という本質上の機構をもっている現存在の存在を〔8〕、形式的に実存論的に言いあらわしたものなのである。…】
(訳注) 〔6〕「私がある[ich bin]」のbin不定方は、seinであり、したがって「存在[Sein]」でもある。 〔7〕著者の自家用本の欄外注記によれば、本文のように、「私がある」の不定法として「存在」が解されるという言い方に対して、後年のハイデガーは、「存在は、また、〔三人称単数現在としての〕<ist〔ある〕>の不定詞でもある。たとえば、存在者が存在する〔ある〕、というように」と注記している。 〔8〕著者の自家用本の欄外注記によれば、本文にあるように、内存在が「現存在の存在」を言いあらわしたものだという点に関して、後年のハイデガーは、たしかにそれは「現存在の」存在を言いあらわしてはいるが、「しかし〔それは〕、存在一般〔という意味の存在を言いあらわしたもの〕ではないし、ましてや、存在そのもの――つまり端的な存在〔という意味の存在を言いあらわしたもの〕でもない」と、注意書きを付加している。
そして、「世界内存在」は「現存在の一つの根本機構」ってしてるみたい。
ハイデガーの言う「世界内存在」という語の意味、なんか雰囲気的に見えてきたかな。
こういうのってフッサールの言う「日常生活」に絡まってくる感じ。 No11467で、たしか、 【ハイデガーの「世界−内−存在」は現象学的還元を基礎として、初めて出現しえたのである。】って書いてあった。
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