□投稿者/ pipit -(2021/09/27(Mon) 11:43:56)
| みのりさん、こんにちは!書き込みありがとうございます\(^o^)/
■No16855に返信(みのりさんの記事) > pipitさん、こんにちは〜。 > > >私たちは、「私の意識」や「あなたの意識」という主観的な意識にとどまっている限り、客観的な判断を下すことはできません。 > >もし私たちが客観的な判断を下すことができると考えるのであれば、そうしたさまざまな主観的な意識を包み超えた、あるいはそうした主観的な意識に通底する「意識一般」が権利上、考えられねばなりません。 > >つまり、客観的判断は意識一般を目がけて下されるのです。 > >「意識一般」はこのように普遍的な意識であると考えられます(この「意識一般」は、突き詰めて考えれば、「純粋統覚」あるいは「根源的統覚」の別名であることが理解できます)。』 > >引用終了 > > 客観的な判断が下さられるためには、主観的な意識を包み超えた、あるいはそうした主観的な意識に通底する「意識一般」が考えられなければならない。 > つまり、客観的判断というのは、この意識一般を目掛けてくる。 > 要約するとこうかな、と。 > > 私が考えたのは。 > 誰が、Aさんが、Bさんがという個別の意識に通底する「意識一般」が、「純粋統覚」あるいは「根源的な統覚」だということ。 > > 最初から自分という個別の意識のフィルターを通してしまうと、主観的判断になるけれど、意識そのものが個別のものではなく「意識一般」であるとしての判断は、客観的なものになりやすい、というようなことかな、と。 > > こんなふうに考えました。 > > ・・・・・ > ここからは余談。 非二元で「気づき」という言葉で使われます。 > この「気づき」と「純粋統覚」「根源的統覚」というのは、私の中では > ですがどうも似通っているように感じます。<
そうですよね、なんか、わたしもみのりさんと同じような印象受けてしまいます。 でも、カントの文章はめちゃめちゃわかりにくくて(T ^ T)
カントの文章の解釈として、慎重に行かなければという思いなのですが、 カントは天然的だと思うのですが、多義に解釈できる記述になってしまってる印象を受けます。 私見なのですが、これは仏教のパーリ経典についても同様に思っています。 (多義に解釈しても解釈者一人一人の益になることを目指して仏典は紡がれてると思っています。抜苦のために説かれている、残されている、と。) 石飛先生が研究されている『空』という言葉が思い浮かびます(^-^)
みのりさんが書いてくださったことも含め、読んでみますね、 ありがとうございます! (*^▽^*)♪♪♪
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