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Re[7]: Bewuβtsein uberhaupt意識一般
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□投稿者/ みのり -(2021/09/27(Mon) 11:19:00)
| pipitさん、こんにちは〜。
>私たちは、「私の意識」や「あなたの意識」という主観的な意識にとどまっている限り、客観的な判断を下すことはできません。 >もし私たちが客観的な判断を下すことができると考えるのであれば、そうしたさまざまな主観的な意識を包み超えた、あるいはそうした主観的な意識に通底する「意識一般」が権利上、考えられねばなりません。 >つまり、客観的判断は意識一般を目がけて下されるのです。 >「意識一般」はこのように普遍的な意識であると考えられます(この「意識一般」は、突き詰めて考えれば、「純粋統覚」あるいは「根源的統覚」の別名であることが理解できます)。』 >引用終了
客観的な判断が下さられるためには、主観的な意識を包み超えた、あるいはそうした主観的な意識に通底する「意識一般」が考えられなければならない。 つまり、客観的判断というのは、この意識一般を目掛けてくる。 要約するとこうかな、と。
私が考えたのは。 誰が、Aさんが、Bさんがという個別の意識に通底する「意識一般」が、「純粋統覚」あるいは「根源的な統覚」だということ。
最初から自分という個別の意識のフィルターを通してしまうと、主観的判断になるけれど、意識そのものが個別のものではなく「意識一般」であるとしての判断は、客観的なものになりやすい、というようなことかな、と。
こんなふうに考えました。
・・・・・ ここからは余談。 非二元で「気づき」という言葉で使われます。 この「気づき」と「純粋統覚」「根源的統覚」というのは、私の中では ですがどうも似通っているように感じます。
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