□投稿者/ 田秋 -(2021/09/12(Sun) 16:47:24)
| 2021/09/12(Sun) 17:09:33 編集(投稿者)
こんにちは、アートポットさん
随分間が空きましたが無用の用の第2回です。
前回の無用の用は役に立たないことこそが生きのびる道であるという論理の展開で、役に立たない(無用)ことが生きのびる為の術([有]用)ということを述べているのだと思います。これに酷似したエピソードはまだいくつか載っていますが少し形の変わったものもあります。
既にno14580で書いた尾を泥中に曳くとその中で触れた生贄の牛の話です。どちらも死んで尊ばれることより生きのびる道を選ぶという話です。無用の用を逆方向から見て、役に立ったからその命を全うできなかった例を挙げています。
以上述べたことは生き永らえることが重要という観点から書いていますが、荘子本来の万物斉同、絶対無差別の思想からするとおかしな考えになります。生死をも差別しないというのが万物斉同だからです。しかし、もし生と死が同じ比重なら、「人を殺したら罪になる」根拠が無くなるような気がします。が、その辺りの哲学的考察はボクの守備範囲外になるのでこれ以上は論じません。
今回はシチュエーションの異なる無用の用を見てみます。 列禦寇が弓を射る話です。この話は列子にも荘子にも載っています(列子では[禦]、荘子では[御])。列禦寇の話ですから列子に載る話を見てみましょう。 このエピソードは黄帝第二にあり、列禦寇が先輩に当たる伯昏ぼう(孜の下に目)人(はくこんぼうじん)の前で矢を射てみせます。弓を満月のように引きしぼり、肘には水をたたえた盃を載せそのまま矢を射ますが、水は一滴もこぼれません。放たれた矢は次々と命中します。 これを見た伯昏ぼう人 「確かに素晴らしい腕前だ。しかし有心の射であって無心の射ではない。」 そう言って伯昏ぼう人は列御寇を近くの高い山へ連れて行き、自分はそそりたつ岩に立ち百仞もある深い淵を見下ろしました。そうして禦寇の方を振り向くと後ずさりし、足の半分は宙に浮いている状態なりながらこちらへ来いと促しました。 ところが禦寇は目が眩んでしまい地面に這いつくばり冷汗が踵まで伝わる始末。 そこで伯昏ぼう人は言いました。 「至人は天の果てから地の底まで、宇宙を縦横無尽に駆け回っても少しも動じない。それに比べてお前さんはこれしきの事でぶるぶる震えている。そんなていたらくではいくら矢を中てても危なっかしいものだ」
話はこれで終わります。 さてこの話のどこが無用の用に繋がるのでしょうか。この段の主題は動じない心であり、無用の用を引き出そうとする意図は感じられません。アートポットさんも1分考えてみてください。
私見を述べる前に次のエピソードをみてみましょう。 荘子・雑篇・外物篇第26に載っている話です。 恵子が荘子に 「君のことばは役にたたないよ」 というと荘子は 「役にたたないという本当の意味がわかって初めて有用について語れるんだよ。例えば大地は広く、人間が立つのに必要な広さは両足の大きささえあれば十分だ。しかし、もしもその部分だけを残して、後を黄泉の国まで届くほど深く掘り下げたとしたら、それでもそこを十分な広さと言えるかい?」 恵子 「言えない」 荘子 「これが無用の用さ」
以上のような話です(但し、田秋流に少々アレンジしてあります)。 安心して立っていられるのは立っている部分以外の地面が十分あるからで、この「立っている部分以外」が無用の用なのです。
もう一つ、同じく荘子・雑篇・除無鬼篇第24から。 足で大地をふむとき、足はその幅だけのひろさをふむものである。だが足の幅だけの土地があればよいというのではなく、足のふまない周囲のあるおかげで、安心して足のふむ範囲をひろげてゆくことができるのである。 同様に、人間の知識の範囲はせまい。だが、そのせまい知識も、その周囲にひろがる未知の範囲に助けられて、はじめて広大無辺の自然のはたらきを知ることができるのである。 (以下略)
このように進んでくると最初のエピソードの別の解釈ができそうです。列禦寇が最初「弓を満月のように引きしぼり、肘には水をたたえた盃を載せそのまま矢を射ても水は一滴もこぼれず、放たれた矢は次々と命中」したのは自分の足場以外に一見不要に思える十分な地面があったからであり、「目が眩んでしまい地面に這いつくばり冷汗が踵まで伝わる」状態になったのは無用に見える地面が無かったからだという解釈も成り立ちそうです。
参考文献 岩波文庫 列子(上) 中公文庫 荘子・雑篇
|
|