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No14103 の記事


■14103 / )  Re[56]: 永劫回帰と画餅
□投稿者/ みのり -(2021/06/14(Mon) 20:56:04)
    パニチェさん、こんばんは。 レスありがとうございます。

    No14102に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、みのりさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No14087に返信(みのりさんの記事)
    >>パニチェさん、レスありがとうございます。
    >>毎回いろいろと教えていただき感謝でいっぱいです。
    >
    > それはよかったです、でも勝手にレス付けたり引用してるだけですからスルーして先に進んでもらっても全く構いませんので、くれぐれもお気遣いなく。^^

    いえいえ。自分だけでは知りえないことも、引用とともに教えていただけて
    とても勉強させていただいています。


    > >>『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』
    >>
    > >>『諸仏が真理を体験するとき、万物が真理を体験する。たしかに覚者と万物は、表面的に見れば同一のものではない。しかし、真理を体験するとき、おのおのの体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。これが仏道の明確な教えである。それを、諸仏と万物が同一であるか異なっているかという分別によって学んではならない。そのため「一つのことに通じれば、すべてのことに通じる」というのである。一つのことを体験するということは、一つのことが本来具えている姿を奪うことではない。一つのことを他のことと対立させることでも、対立をなくしてしまうことでもない。強いて対立をなくそうすることは、こだわることである。体験することにこだわらないとき、一つの体験は、すべての体験に通じる。このように、一つのことを体験するということは、そのものになりきることである。そのものになりきるということは、すべてのものになりきることである。(正法眼蔵 画餅「誠信書房刊 現代訳 正法眼蔵」より)』
    >>
    >>
    >>ニーチェの方も、画餅という文章のほうも、それぞれ、無自性(共通認識になりえる言葉だと思うので使用します。)という言葉の意味するものでの共通性がありそうに思えます。
    >
    >>自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
    >>万法に証されるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。
    >> 『正法眼蔵 現成公案』からです。
    >>画餅という文章のほうは、これと同じようなことなのかな、というのはなんとなくですが感じました。
    >
    >>パニチェさんご自身考えられる、二つの相通ずるところを教えていただけると嬉しいです。
    >
    > みのりさんも指摘されている通り、無自性ですね。
    > 永劫回帰の受胎も画餅も対立するものがありません、自己も含めた世界全体が融け合っています。
    > 華厳で言うところの事事無礙法界の如く。。。
    > で、自己が体験したり悟るというよりも万物と一体となって体験したり悟ったりしてます。

    なるほど。 自己も含めた世界全体が融け合い、万物と一体となって体験したり悟ったりしている、ということですね。

    > そして共に幸福感あるいは安らぎがそこにあるように思われます。

    ニーチェのアフォリズムには、幸福感に満たされていることを思わせる記述がたしかにありますね。

    悟りを開いた人というのは、常に安心感、安らぎに包まれているというのを聞いたことがあります。
    ニーチェが悟りを開いた人なのかどうかは私にはわかりようもないですが、病という苦しみも全肯定していたことを考えると、安らぎ、安心感に包まれていたのかもしれないです。
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