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No14008 の記事


■14008 / )  血でもって書かれた書
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/12(Sat) 08:41:19)
    2021/06/12(Sat) 09:04:30 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。

    No14006に返信(みのりさんの記事)
    >>また現時点の自分自身への最高形式の肯定とは、現在の自分を形成したこれまでの生もひっくるめて全肯定するということ。小さき我愛(自己愛)はその対極にある。

    > この部分にとても惹かれるというかそうでありたいものだ、と思いました。
    > ニーチェ自身も病に苦しみましたが、その運命を全肯定し、常に今に生きていたんですね。

    はい、その通りだと思いますし、彼の病苦を救ったのは彼自身の哲学だと思います。
    誤解があってはいけないので念のために…上記の文章はニーチェが言うところの運命愛をパニチェ流に解釈したパニチェの言葉なので素っ頓狂の可能性もあります。^^

    『私は私であり、私の著作は私の著作であって、両者は別ものである。・・・私を多少とも理解したと思い込んだ人は、自分に合わせて、私を適当に拵え上げているまでであって──私自身とは正反対の像を拵え上げることも稀ではない。(この人を見よ なぜ私は良い本を書くのか1)』

    > ニーチェ、やはりいいですね。
    > 勇気とともに固定観念に縛られず前向きに生きる大切さを教えてくれます。

    共感いただき、正直嬉しいです。
    参考までにニーチェの自身の病苦に対するアフォリズムを引用しておきます。

    『病苦の時期にはわが身における何もかもが洗練された。観察それ自体だけでなく、観察の全器官も洗練されたのである。病者の光学から一段と健康な概念と価値を見渡し、また、これとは反対に豊富な生の充実と自信からのデカダンス本能の秘かな営みを見下すこと──これが私の最も歳月をかけた修行であり、私のほんとうの経験であって、もし私が何らかの点で達人になったのだとすれば、それはこの点においてであった。私は今やこの点をしっかり手中に収めている。物の見方を切替えることにかけては私はお手のものである。おそらく私にだけ、そもそも「価値の価値転換」などということが可能になる第一の理由は、ここにある。── 以上のような次第で、私は一個のデカダンなのであるが、それとは別に、私はデカダンの正反対のものである。その何よりの証拠は、ただ単なるデカダンであれば、心身の悪い状態にあるときに自分に不利な措置を講じるのが常であるのに、私は反対に悪い状態に逆らって本能的にいつも適切な措置を講じて来た、ということである。…《中略》…──心理学者なら誰でも承認しようが──根が健康であるということなのだ。典型的に病弱な人間は健康になることができない。ましてや自分で自分を健康にすることなど思いも及ばない。ところが、典型的に健康な人間にとっては、反対に、病気であることが、生きること、より多量に生きることへの強力な刺戟にさえなりえるのである。実際にこんな風に、今から考えると、あの永かった病苦の時代が私には偲ばれる。私は生をいわば新しく発見したのである。勿論、私自身の生も含めて。私は他の人々ならそう味わえそうもないようなすべての良い物事、小さな物事までをも、味わいつくした。──私は健康への意志、生への意志から、私の哲学を作り出した。…私の生命力が最低点に突き当たったあの数年が、ほかでもない、私がペシミストであることをやめた時期であったということに、どうか注目いいただきたい。自己再建の本能が私に貧困と落剥の哲学を禁止したせいだった。(この人を見よ なぜ私はかくも賢明なのか1〜2)』

    主著である『ツァラトゥストラ』は1883年から1885年まで2年の歳月を要していますが、実際には健康の最低点にあった病気療養中に第二部は同年7月にシルス・マリアで、第三部は翌1884年1月にニースで、第四部はさらにその翌年の1885年の2月に同じくニースで、何れも第一部同様、10日間という短い日時の間に一気に書き上げています。この時期のニーチェの精神は身体とは真逆に最高点に達していたように思われます。

    またある種の見性体験である(パニチェはそのように考えています)永劫回帰の受胎も1881年の8月に病気療養ため訪れていたシルス・マリアのシルヴァプラナ湖畔を散歩中、巨大な尖った三角岩のほとりで起きます。
    ニーチェのアフォリズムがある意味では危険なほどに説得力があるのは彼が彼自身のためにツァラトゥストラの言葉を借りて言えば「血でもって書かれた」文章であるからだと思います。

    『すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって書いてあるものだけを、愛する。血をもって書け。そうすれば、きみは、血が精神であることを経験するであろう。(ツァラトゥストラ 読むことと書くことについて)』

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