□投稿者/ みのり -(2021/06/07(Mon) 07:41:34)
| パニチェさん、ありがとうございます。
■No13669に返信(パニチェさんの記事)
> 全くもって同意です。 > セム系宗教に限らず、仏教教団というか、ある宗派でも悪因苦果や因果応報をもって、教団を離れることや教義批判は仏罰に該当し地獄に堕ちる等々の恐怖を与え、信者を縛り付けることがあります。 > そもそも審判そのものが愛とは相容れないことはニーチェも指摘しています。
救いを求めた先でマインドコントロールに苦悩する、というのはとても切ない ですよね。
> 『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』
ニーチェが審判についてどう考えていたか、よく伝わってきます。
> 『あまりにも東洋的。──何ですって?人間が彼を信仰するならば、人間を愛してくれる神だって!この愛を信じない者には怖るべき眼光と威嚇を投げつける神だって!何ですって?全能の神の感情としての但し書きつきの愛だって!名誉心や復讐欲をどうしても制しきれない愛だって!なにもかもが何と東洋的であることだ!「私が君を愛したとて、それが君に何のかかわりがあろう?」──こういうだけでもすでにキリスト教全体に対する十分の批判である。(悦ばしき知識 第141番)』
この文章でのニーチェの主旨について、私も同じような見解です。
「あまりにも東洋的」というのは、どういう意味なんだろう? よかったら教えていただけますか。
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