□投稿者/ パニチェ -(2021/06/06(Sun) 15:49:13)
| こんにちは、みのりさん
■No13666に返信(みのりさんの記事) > 恐怖によって支配されてしまう信仰というのもあるのかもしれないな。 > 本当かどうか分からないものに恐怖を感じなくてもいいんじゃない? > と思ってしまうのだけど、支配されてしまうとそうもいかないんだろうな。
> 慈愛に満ちた親が、我が子たちを分け隔てなく愛するように、 > もし神というものが存在するとしたら、神はどんな創造物であっても > 愛しているんじゃないの? > 神を信じようが信じまいが。 > 私は勝手にそんなふうに想像してるけど。 > (もし、神が存在するとしたらの話です。)
全くもって同意です。 セム系宗教に限らず、仏教教団というか、ある宗派でも悪因苦果や因果応報をもって、教団を離れることや教義批判は仏罰に該当し地獄に堕ちる等々の恐怖を与え、信者を縛り付けることがあります。 そもそも審判そのものが愛とは相容れないことはニーチェも指摘しています。
『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』
『あまりにも東洋的。──何ですって?人間が彼を信仰するならば、人間を愛してくれる神だって!この愛を信じない者には怖るべき眼光と威嚇を投げつける神だって!何ですって?全能の神の感情としての但し書きつきの愛だって!名誉心や復讐欲をどうしても制しきれない愛だって!なにもかもが何と東洋的であることだ!「私が君を愛したとて、それが君に何のかかわりがあろう?」──こういうだけでもすでにキリスト教全体に対する十分の批判である。(悦ばしき知識 第141番)』
|
|