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No12423 の記事


■12423 / )  Re[7]: 哲学の雑談 11
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/05(Wed) 19:38:34)
    パニチェさんレスありがとうございます。

    > まず、私が一番興味があったのは愛満開さんの以下のカキコをさせる心理状況というか、どういう感覚かについてです。
    >
    >>■No12409に返信(愛満開さんの記事)
    >>無神論者が自動的に全員救われるのではないのですね、安心しました。
    >
    > これについて率直というか正直なところを教えてもらえれば有難いです。

    というのは、イエス様が、あのような弟子にも裏切られ、人々にも辱められて
    孤独と絶望の中で十字架上で死んでいかねばならなかったこと。
    それは、人々を何とか罪から救い出したいという神の愛の表れだったことを思うと
    神を信仰せずにはいられないからです。

    なので、イエス様を知らないのなら仕方ないと思いますが、そうでなくて神の愛に
    そっぽを向いて無神論でいると言う人が救われるとは、すんなりとは思えないからでした。

    > 旧約聖書に登場する神、つまり洪水によって人々を死に至らしめる神とキリストが説く愛に満ちた神との整合性はクリスチャンの中ではどのようにとれているのでしょうか?
    > 旧約と新約ではあまりにかけ離れているように思います。

    旧約では、神とは、どのようなお方なのかを定義づけ示されています。
    つまり、創造主であり、人格神、自己啓示の神であり、聖と義なる神、正義により仮借のない審判を執り行う全知全能で完全な神ということが示されています。
    このことは、イザヤ書43章にあるように、神の正義と罪の贖いが預言されているところから、神とは憐れみ深く慈しみはとこしえであることも示されています。
    そして、旧約聖書を具現化したのがイエス様だと言う事だと思います。

    > 新約らしい教えだとは思いますが旧約との整合性がとれていないようには思えます。
    > ちなみに浄土系仏教も万人は既に阿弥陀の本願によって救われているがそれに気付くか気付かないかは本人次第という教説なので、そういうところは似ているとは思います。

    阿弥陀様の本願も、娑婆では、真面な修業も出来ない煩悩に塗れた人間を憐れんで極楽浄土で修業を完成させ仏にさせるべく信心により救おうと言う事でしょうが、
    しょせん完璧な善に人間は成ることは出来ないので、ここに神仏への信仰の意味があるのだと思います。

    救済の手段や目的、そこまでの論理は神仏で異なるのですが、こうした絶対者に対する完全になれない自分というものを考えさせられます。
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