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Re[3]: 哲学の雑談 11
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□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/05(Wed) 16:40:11)
| knowing itselfさん、早速の御書込みありがとうございます。
>>ただ、信仰のみなのか、それとも行いによるものなのか、というところから、 > > 信仰のみか、行いか、という貧しすぎる抽象論など役に立ちません。行いによってのみ救われれるカトリックというのは、藁人形論法の最たるもの。 > > 先に紹介したベンシャピロとの対談で、カトリックはフェイスbasedやアクト(行い)based、というより、love(愛)basedだと、バロン司教は明言しています。これが彼の一番いいたかったことでしょう。
なるほど、そうでしたか。
> 後半では、まず神のグレイスがあって、それに人間が応答する。その応答面を重視するといっていましたが、応答というのはlovebasedの応答という意味です。 > > ただいえることは、信仰のみでも愛の応答がなければまったく救われない可能性を認めるのがカトリックだとはいえるかも知れない。
愛ですか。三位一体の神の御性質から言ったら、そうかもしれません。 >>バロン司教の無神論でも救われるというのが納得できなかっただけです。 > > can be savedといっているんです。無神論者が自動的に全員救われるとはいっていません。逆に、人間への愛に溢れた無神論者が救われる可能性はありえないが、信仰だけで人間への愛の乏しすぎても、クリスチャンであるだけで自動的に救われるとなったら、違和感を覚える人がいても不思議ではありません。 > > 無神論者が救われる可能性がないとなったら、しかもプロテスタント教会で信仰告白しない人でなきゃだめとなったら、日本人のほとんどは救われません。
無神論者が自動的に全員救われるのではないのですね、安心しました。 それに、イエス様の十字架による贖罪と恩寵は、救済に欠かせないことだと思ったからです。
バロン司教は、司会でユダヤ人のシャピロ氏に対して 「無神論者であっても、良心に従った生き方をすれば、救われ得る」 と語ったところがカトリック教会本来の教えなのかなと疑問に思ったからで この辺が私にはよく分からず困惑したところでした。
誤解を与える書き込みでしたらお詫びいたします。 これからも、いろいろ教えて戴ければ幸いです。
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