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Re[4]: Welcome&雑談 7
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□投稿者/ おくたがわ -(2021/03/15(Mon) 18:29:41)
| ■No11161に返信(つばめさんの記事) > ■No10735に返信(おくたがわさんの記事)
勝手な方向に持っていきますけど、禅(または禅にヒントを得た心理療法)に、 苦しいときは苦しいまま(腹が立つときは腹が立つまま、悲しいときは悲しいままetc.なんでも同じ) さらに、苦しみになりきる、というような発想があります。 心を解決しよう・変えようと手を出さない・いじくらない 花は紅 柳は緑。白雲自去来 あるがまま
ツバメさんの文章から、自分の心や感情を自分で解決できると思う傲慢を捨てる、とかちょっと思い浮かんだ。 花を緑に柳を紅にできるとか、雲がやってくるのを防げると思う傲慢。
ちなみに、禅や仏教を論じている人については、前述の発想があるかどうかで、信頼できるかどうかの目安にしていたりします。自分がきちんと学びも修行もしていないのに、そうやって人を判断するのは目茶苦茶傲慢やなぁ というのは置いといて。
> きっと苦しみに意味があり、現在の自分の苦しみには何がしらかの意味や価値があると考えることは、生きていく上では重要なことなのだろうと思ったりします。 > それは不幸、不遇、悲惨な人生に意味と勇気を与え、また、ひとは学習する生きものでもあるから、不幸や不運、失敗から学ぶことも多いと思います。
事実問題の解決としては重要なのだと思います。苦しい経験を材料にして、同じ失敗をしないように修正するという。感情を伴うことは記憶に残りやすい。ということも関係あるかも。 しかし、「苦しみ」自体を消そうという目的で、この苦しみには意味がある、これはいつかきっと役に立つ、この苦しみがあるから他者の苦しみを分かる人になれる とか そういう意味付けは役に立たない。やればやるほど深みにはまる可能性すらあるように思っています。 逆に、この宇宙の大きさからみたら自分の苦しみなんて、とかも同じく。
完全に自分勝手な方向に進んでますので、興味が無かったらスルーお願いします。
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