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■9406 / inTopicNo.49)  Re[18]: 人間哲学
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/23(Mon) 20:15:46)
    ■9401
    >西洋哲学の形而上学志向というのは、ギリシャ由来のものと、ヘブライ由来のものの二重性でしょう。哲学の場合、ギリシャがベースかな。特にアリストテレス。ハイデガーが形而上学批判といってもギリシャに結局戻る<
    こういうんでいいの?

    ま、「日本の哲学」はそれで「結論とする」、っていうことで、はい、めでたしめでたし。

    わたしそれでもOKね。
引用返信/返信 削除キー/
■9404 / inTopicNo.50)  Re[17]: 二種の不二
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 20:00:06)
    2020/11/23(Mon) 20:05:22 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No9400に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>No9381で引用した形而上学の定義

    >>『…前略…探究は、個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する。それはアリステレスがしばしば説いたように、「我々にとって先なるもの」から、「本性上先なるもの」へと遡ることである。ここで探究されている学が、感性界の事様にかかわる自然科学的諸巻の後に置かれたのは、このようなアリストテレスの精神に従ってのことである。究極的なものへの探究は、哲学の様々な分科的諸部門を超えて、「第一の哲学」を求める。アリストテレスによれば「すべての学は、ある特定の存在および類を抽き出して、その研究に専念しているが、存在を端的に、存在を存在として研究することがない」「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いものである。…以下、略…(講談社現代新書『現代哲学事典 形而上学』より引用)』

    > 執筆者が誰かわかりますか。「存在を端的に、存在を存在として研究することがない」という記述、ちょっと極論のような気もします。アリストテレスは個物を重視している人であると個人的には理解していますので。

    『現代哲学事典』は山崎正一氏と市川浩氏、他26名の共著ですが、形而上学については山崎正一氏が担当しています。
    参考文献として、アリストテレス著、出隆訳『形而上学』岩波文庫、トマス・アクイナス著、高田三郎ほか訳『神学大全』創文社、カント著、篠田英雄訳『純粋理性批判』岩波文庫とありました。

    >>上記が形而上学であるなら〈私〉は「個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する」テーマではない。さらに「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いもの」でもないので、形而上学とするのはおかしいだろ、ってことです。

    > 形而上学の定義がこれに尽きるわけではないと思っています。

    それはそうですね。
引用返信/返信 削除キー/
■9401 / inTopicNo.51)  ギリシャ哲学
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 19:19:38)
    西洋哲学の形而上学志向というのは、ギリシャ由来のものと、ヘブライ由来のものの二重性でしょう。哲学の場合、ギリシャがベースかな。特にアリストテレス。ハイデガーが形而上学批判といってもギリシャに結局戻る。
引用返信/返信 削除キー/
■9400 / inTopicNo.52)  Re[16]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 19:14:32)
    パニチェさんへ

    > No9381で引用した形而上学の定義
    >
    > 『…前略…探究は、個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する。それはアリステレスがしばしば説いたように、「我々にとって先なるもの」から、「本性上先なるもの」へと遡ることである。ここで探究されている学が、感性界の事様にかかわる自然科学的諸巻の後に置かれたのは、このようなアリストテレスの精神に従ってのことである。究極的なものへの探究は、哲学の様々な分科的諸部門を超えて、「第一の哲学」を求める。アリストテレスによれば「すべての学は、ある特定の存在および類を抽き出して、その研究に専念しているが、存在を端的に、存在を存在として研究することがない」「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いものである。…以下、略…(講談社現代新書『現代哲学事典 形而上学』より引用)』

    執筆者が誰かわかりますか。「存在を端的に、存在を存在として研究することがない」という記述、ちょっと極論のような気もします。アリストテレスは個物を重視している人であると個人的には理解していますので。


    > 上記が形而上学であるなら〈私〉は「個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する」テーマではない。さらに「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いもの」でもないので、形而上学とするのはおかしいだろ、ってことです。

    形而上学の定義がこれに尽きるわけではないと思っています。

    >>あと、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在という意味で形而上学的な主体をいうのであれば、むしろ自然な用例ですが、「〈私〉は歴史学的にも科学的にもこの世界の客観的事実を超えた超越的な存在である」という趣旨を永井さん自身が書いています。
    >
    > 「超越」という日本語、つまり「あるものを超えている」ということであれば〈私〉は世界内に属する存在ではなく、世界と接点をもった特別な位置(特異点)にあるという意味での超越なら違和感はありません。

    世界と接点をもった特別な位置という表現ですが、この表現だと違う円が接点を共有するというイメージで捉えることも可能で、〈私〉が世界に因果的な影響力を与えるという解釈にもなりうるかと思います。わたしの理解する永井説はちょっと違いますね。〈私〉と「私」は一枚の裏表であっても、〈私〉は「私」の歴史的科学的な地平からは超越しているとなります。チェスの冠の喩えで語っておられたと思います。

    > そういう意味として「〈私〉は歴史学的にも科学的にもこの世界の客観的事実を超えた超越的な存在である」ということであれば同意できます。
    > 結論から言えば〈私〉を、あるいは〈私〉の探究に際して、カントや西洋哲学用語としての「超越的」とか「超越論的」に結び付ける必要というか意義はパニチェは特に感じないといったところです。

    そうですか。
引用返信/返信 削除キー/
■9398 / inTopicNo.53)  言いたい放題
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 19:00:19)
    No9393に返信(pipitさんの記事)
    > 形而下を生み出す存在、が形而上か形而下か、は、哲学的に規定するには難しい問題なのかな?
    > 接地面みたいな(^^;)

    西洋哲学的には形而下は形而上によって生み出されている。
    だから第一哲学なんですね。

    これがそもそもおかしいだろってことです。
    私たちは私たちの感覚や経験を超え出たものを探究することができません。

    天から大地ではなく、あくまでも大地から天へ向かうベクトル。
    これが東洋哲学。

    そういう意味では東洋哲学は西洋哲学より遥に先に行ってます。
    ニーチェ以前の伝統的な西洋哲学は一神教が落とす長い影が拭いきれていない。
引用返信/返信 削除キー/
■9397 / inTopicNo.54)  Re[19]: 永井均さん
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 18:58:22)
    pipitさんへ

    > https://samgha.co.jp/websamgha/nagai/自己ぎりの自己、とその蔓つる/
    >
    > 一部抜粋します。
    >
    > 抜粋引用開始
    > 『どんなことが起こっているかに関係なく現在は端的に現在であり、どんな人であるかに関係なく私は端的に私である。諸々の時点のうちこの時点が現在であることにはいかなる根拠もなく、もろもろの人間のうちこの人が私であることにはいかなる根拠もない。出来事どうしの繋がりには多くの因果的連関があるが、ある出来事がなぜか現在であることはいかなる因果連関からも独立であり、ある人がある性質や状態にあること(自分を意識していたり、身長一八七センチであったり、鬱うつ状態にあったり、縮れ毛であったり、…)には因果的根拠があるが、ある人がなぜか(他人ではなく)私であることにはいかなる因果的根拠もない。伝統的な仏教用語を使って、因果的に条件づけられていることを有為と呼び、条件づけられていないことを無為と呼ぶなら、ある時点が現在であることも、ある人が私であることも、無為なのである。』
    > 抜粋引用終了


    永井さんならこう考えるだろうという、そのとおりが書き込まれていると思います。〈私〉には現実の歴史的・科学的な因果的連関から超越しているという意味で、超越的な主体だということでしょう。



    > pipitは永井均さん哲学のことを詳しくちゃんとわかってないんですけど、
    > 〈私〉の独在性の根拠(因)が無いと捉えてるんだな、と思いました。
    > 超越とかにも、ここらへんの捉え方が関係してくるのかなあ?わからないけど?と思いました。根拠を超越して働きが現出してる、、、もしくは、対象から超越した存在ということかなあ?とか。。。勝手に考えてみました。

    そうだと思います。

    > 記事の最後らへんで、他人のことを超越者と表現してる箇所もありました。
    > この場合は、自分〈私〉から超越した存在だからかなあ?と勝手に考えてみました。
    >
    > 抜粋引用開始
    > 『私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、先ほど述べた意味での無為なる存在が、他,の,無,為,な,る,存,在,に,呼びかける、いわば超越者に対する祈りの言葉なのである。』
    > 抜粋引用終了
    >
    > 時とともに永井均さんの思想も変わってる可能性もありますね。

    この文章についてなら、まったく変わっていないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■9395 / inTopicNo.55)  Re[19]: 永井均さん
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 18:25:28)
    2020/11/23(Mon) 18:28:27 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんは。リンク案内&引用ありがとうございます。
    読ませてもらいました。

    No9391に返信(pipitさんの記事)
    > https://samgha.co.jp/websamgha/nagai/自己ぎりの自己、とその蔓つる/
    > 一部抜粋します。

    > 抜粋引用開始
    > 『どんなことが起こっているかに関係なく現在は端的に現在であり、どんな人であるかに関係なく私は端的に私である。諸々の時点のうちこの時点が現在であることにはいかなる根拠もなく、もろもろの人間のうちこの人が私であることにはいかなる根拠もない。出来事どうしの繋がりには多くの因果的連関があるが、ある出来事がなぜか現在であることはいかなる因果連関からも独立であり、ある人がある性質や状態にあること(自分を意識していたり、身長一八七センチであったり、鬱うつ状態にあったり、縮れ毛であったり、…)には因果的根拠があるが、ある人がなぜか(他人ではなく)私であることにはいかなる因果的根拠もない。伝統的な仏教用語を使って、因果的に条件づけられていることを有為と呼び、条件づけられていないことを無為と呼ぶなら、ある時点が現在であることも、ある人が私であることも、無為なのである。』
    > 抜粋引用終了

    > pipitは永井均さん哲学のことを詳しくちゃんとわかってないんですけど、
    > 〈私〉の独在性の根拠(因)が無いと捉えてるんだな、と思いました。
    > 超越とかにも、ここらへんの捉え方が関係してくるのかなあ?わからないけど?と思いました。根拠を超越して働きが現出してる、、、もしくは、対象から超越した存在ということかなあ?とか。。。勝手に考えてみました。
    > 記事の最後らへんで、他人のことを超越者と表現してる箇所もありました。
    > この場合は、自分〈私〉から超越した存在だからかなあ?と勝手に考えてみました。

    永井さんはデカルトのコギト、所謂「第一原理」も含め、先なるもの、つまり根拠を必要としないという文脈で〈私〉を形而上学的主体と見なしているのだと思います。

    > 抜粋引用開始
    > 『私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、先ほど述べた意味での無為なる存在が、他,の,無,為,な,る,存,在,に,呼びかける、いわば超越者に対する祈りの言葉なのである。』
    > 抜粋引用終了

    > 時とともに永井均さんの思想も変わってる可能性もありますね。
    > わかってないまま、この辺関連あるかな?との推測で投稿して、
    > 推測がはずれてて、全然意味なかったらすみませんm(_ _)m

    上記の見解は「〈仏教3.0〉を哲学する U」では違和感があった部分(蔓で繋がったぶっ続き)を永井さんなりに消化(昇華)しようとしているところですね。
    面白い発想だとは思いますが、正直言って「他,の,無,為,な,る,存,在,に,呼びかける」ってのが(パニチェが探究している〈私〉からすれば)ピンときません。^^

引用返信/返信 削除キー/
■9394 / inTopicNo.56)  Re[15]: 二種の不二
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 18:12:53)
    2020/11/23(Mon) 18:26:57 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No9382に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 形而上学とは非リアルの別名ではないと思います。これ以上リアルな存在は他にないという意味で形而上学主体という語を使うことは、別におかしいことではないですね。

    ここは平行線になるかもしれないですね。

    No9381で引用した形而上学の定義

    『…前略…探究は、個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する。それはアリステレスがしばしば説いたように、「我々にとって先なるもの」から、「本性上先なるもの」へと遡ることである。ここで探究されている学が、感性界の事様にかかわる自然科学的諸巻の後に置かれたのは、このようなアリストテレスの精神に従ってのことである。究極的なものへの探究は、哲学の様々な分科的諸部門を超えて、「第一の哲学」を求める。アリストテレスによれば「すべての学は、ある特定の存在および類を抽き出して、その研究に専念しているが、存在を端的に、存在を存在として研究することがない」「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いものである。…以下、略…(講談社現代新書『現代哲学事典 形而上学』より引用)』

    上記が形而上学であるなら〈私〉は「個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する」テーマではない。さらに「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いもの」でもないので、形而上学とするのはおかしいだろ、ってことです。

    > あと、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在という意味で形而上学的な主体をいうのであれば、むしろ自然な用例ですが、「〈私〉は歴史学的にも科学的にもこの世界の客観的事実を超えた超越的な存在である」という趣旨を永井さん自身が書いています。

    「超越」という日本語、つまり「あるものを超えている」ということであれば〈私〉は世界内に属する存在ではなく、世界と接点をもった特別な位置(特異点)にあるという意味での超越なら違和感はありません。
    そういう意味として「〈私〉は歴史学的にも科学的にもこの世界の客観的事実を超えた超越的な存在である」ということであれば同意できます。
    結論から言えば〈私〉を、あるいは〈私〉の探究に際して、カントや西洋哲学用語としての「超越的」とか「超越論的」に結び付ける必要というか意義はパニチェは特に感じないといったところです。


引用返信/返信 削除キー/
■9393 / inTopicNo.57)  Re[20]: 永井均さん
□投稿者/ pipit -(2020/11/23(Mon) 17:15:11)
    形而下を生み出す存在、が形而上か形而下か、は、哲学的に規定するには難しい問題なのかな?
    接地面みたいな(^^;)
引用返信/返信 削除キー/
■9392 / inTopicNo.58)  Re[19]: 永井均さん
□投稿者/ pipit -(2020/11/23(Mon) 16:55:15)
    https://samgha.co.jp/websamgha/nagai/自己ぎりの自己、とその蔓つる/


    あら、ページにとべないですね。

    右上のメニューの一つの、ウェブサンガというページに入って、
    下の方にスクロールすると、著者別みたいな欄に、永井均さん名前があって、
    そこから私の読んだ記事が読めると思います。

    失礼しましたm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■9391 / inTopicNo.59)  永井均さん
□投稿者/ pipit -(2020/11/23(Mon) 16:48:51)
    みなさまこんにちは。

    出版社のサンガのホームページに永井均さんの記事があったので、
    アドレスを投稿します。

    https://samgha.co.jp/websamgha/nagai/自己ぎりの自己、とその蔓つる/

    一部抜粋します。

    抜粋引用開始
    『どんなことが起こっているかに関係なく現在は端的に現在であり、どんな人であるかに関係なく私は端的に私である。諸々の時点のうちこの時点が現在であることにはいかなる根拠もなく、もろもろの人間のうちこの人が私であることにはいかなる根拠もない。出来事どうしの繋がりには多くの因果的連関があるが、ある出来事がなぜか現在であることはいかなる因果連関からも独立であり、ある人がある性質や状態にあること(自分を意識していたり、身長一八七センチであったり、鬱うつ状態にあったり、縮れ毛であったり、…)には因果的根拠があるが、ある人がなぜか(他人ではなく)私であることにはいかなる因果的根拠もない。伝統的な仏教用語を使って、因果的に条件づけられていることを有為と呼び、条件づけられていないことを無為と呼ぶなら、ある時点が現在であることも、ある人が私であることも、無為なのである。』
    抜粋引用終了

    pipitは永井均さん哲学のことを詳しくちゃんとわかってないんですけど、
    〈私〉の独在性の根拠(因)が無いと捉えてるんだな、と思いました。
    超越とかにも、ここらへんの捉え方が関係してくるのかなあ?わからないけど?と思いました。根拠を超越して働きが現出してる、、、もしくは、対象から超越した存在ということかなあ?とか。。。勝手に考えてみました。
    記事の最後らへんで、他人のことを超越者と表現してる箇所もありました。
    この場合は、自分〈私〉から超越した存在だからかなあ?と勝手に考えてみました。

    抜粋引用開始
    『私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、先ほど述べた意味での無為なる存在が、他,の,無,為,な,る,存,在,に,呼びかける、いわば超越者に対する祈りの言葉なのである。』
    抜粋引用終了

    時とともに永井均さんの思想も変わってる可能性もありますね。
    わかってないまま、この辺関連あるかな?との推測で投稿して、
    推測がはずれてて、全然意味なかったらすみませんm(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■9387 / inTopicNo.60)  東洋思想と形而上学
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 15:33:40)
    この分野で注目すべきは、井筒俊彦の仕事でしょう。
引用返信/返信 削除キー/

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