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■10031 / inTopicNo.1)  正定
  
□投稿者/ pipit -(2020/12/15(Tue) 00:32:30)

    瞑想や坐禅は、八正道の中の正定への道になるのかな??
引用返信/返信 削除キー/
■10030 / inTopicNo.2)  3-2.ウッタマー長老尼の偈
□投稿者/ pipit -(2020/12/15(Tue) 00:25:39)
    (パーリ語)※パーリ語の記号は入力できていません。

    3. 2
    42. Catukkhattum pancakkhattun vihara upanikkhamim
    Aladdha cetaso santim citte avasavattini.

    43. Sa bhikkhunim
    upaganchim ya me saddhayaka ahu
    Sa me dhammamadesesi khandhayatanadhatuyo.

    44. Tassa dhammam sunitvana yatha mam anusasi sa
    Sattaham ekapallanke nisidim sukhasamappita
    Atthamiya pada pasaresim tamokkhandham padaliyati.


    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/Thi_utf8.html#v.42

    ※※※※※※※※

    (Thanissaro比丘さまの英訳)

    Four times, five, I ran amok from my dwelling,
    having gained no peace of awareness,
    my thoughts out of control.
    So I went to a trustworthy nun.
    She taught me the Dhamma:
    aggregates, sense spheres, & elements.
    Hearing the Dhamma,
    I did as she said.
    For seven days I sat in one spot,
    absorbed in rapture & bliss.
    On the eighth, I stretched out my legs,
    having burst the mass
    of darkness.

    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/thig/thig.03.02.than.html

    ※※※※※※※※

    ウッタマー長老尼さまの偈

    (pipitが英訳文を読んで、頭に浮かんだ状況の感想)
    Four times, five, I ran amok from my dwelling,
    (感想)四度、五度、と、精舎を抜け出した

      having gained no peace of awareness,
    (感想)平穏を得ることができなくて

    my thoughts out of control.
    (感想)思考のコントロールがきかなくて

    So I went to a trustworthy nun.
    (感想)だから、頼りにしている尼さまのもとに赴いた


    She taught me the Dhamma:
    (感想)彼女はわたしにダンマを説いてくださった。

    aggregates, sense spheres, & elements.
    (感想)集合(蘊)、感覚の領域、要素

    Hearing the Dhamma,
    (感想)それらの法を聴き

    I did as she said.
    (感想)説かれたように実践した

    For seven days I sat in one spot,
    (感想)七日間、同じ場所で坐った

    absorbed in rapture & bliss.
    (感想)喜びと至福に浸されて

    On the eighth, I stretched out my legs,
    (感想)八日目に、足を伸ばした

      having burst the mass
    of darkness.
    (感想)暗黒の塊を打ち破って
引用返信/返信 削除キー/
■10019 / inTopicNo.3)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/12/13(Sun) 23:29:44)
    こんばんは

    No10005に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 仏教について、わたしの参考書から。
    >
    > 〔解脱(ブッダ):自分や物にとらわれる執着心を捨て、心の絶対的な平静さの境地である涅槃を実現すること。‥‥〕
    >
    >
    > 〔涅槃:ニルヴァーナ(炎の消滅):という語の音訳。煩悩の炎が消滅し、永遠の平静と安らぎが実現した解脱・悟りの境地。いっさいの苦しみから解放された、澄みきった至福の心の状態。〕
    >
    > ブッダは「生は苦である」って”判断”してた「人」見たいね。<


    まあ、生も、産まれる意味での生かもしれないけどね。
    仏教幅広すぎて、私には全体像はわからないよ。

    私個人のことでいえば、ブッダが説いたとされることが本当かどうかを、自分の内で確かめてみたいと思ってるよ。

    ブッダの説いてることが真実か否かを、検証できるのが、八正道という修行方法だとわたしは理解してるよ。






引用返信/返信 削除キー/
■10005 / inTopicNo.4)  Re[66]: 解脱
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/12/13(Sun) 18:37:31)
    仏教について、わたしの参考書から。

    〔解脱(ブッダ):自分や物にとらわれる執着心を捨て、心の絶対的な平静さの境地である涅槃を実現すること。‥‥〕


    〔涅槃:ニルヴァーナ(炎の消滅):という語の音訳。煩悩の炎が消滅し、永遠の平静と安らぎが実現した解脱・悟りの境地。いっさいの苦しみから解放された、澄みきった至福の心の状態。〕

    ブッダは「生は苦である」って”判断”してた「人」見たいね。

引用返信/返信 削除キー/
■9971 / inTopicNo.5)  ダンマー長老尼の偈
□投稿者/ pipit -(2020/12/12(Sat) 11:09:10)
    2020/12/12(Sat) 11:10:47 編集(投稿者)

    1-17 ダンマー尼さまの偈です。

    (パーリ語)※記号は入力できていません。
    Dhammatherigatha
    1. 17
    17. Pindapatam caritvana dandamolubbha dubbala,
    Vedhamanehi gattehi tattheva nipatim chama,
    Disva adinavan kaye atha cittam vimucci meti.


    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/Thi_utf8.html#v.17

    ※※※※※※※※

    (パーリ語辞典をひいてみました。)
    pindapata 乞食、托鉢食
    caritvvana、carati 行く
    dandamolubbha ?
    dubbala 難満の、難養の
    Vedhamanehi、vedhati ふるえる
    gattehi 、gatta 五体、身体
    tattheva 、tattha そこに、そこで、そのとき
    nipatim nipatati 倒れる
    chama,大地、土地
    Disva 、dassati 見る、認める、理解する
    adhinavam、過患、危難
    kaye 、kaya 身体、集まり
    atha ?
    cittam 、citta 心
    vimucci 、vimuccati 解脱する、脱する
    meti. ?

    ※※※※※※※※

    (Thanissaro比丘さまによる英訳)

    I.17 ― Dhamma {v. 17}


    Wandering for alms ―
    weak, leaning on a staff,
    with trembling limbs ―
    I fell down right there on the ground.
    Seeing the drawbacks of the body,
    my mind was then
    set free.


    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/thig/thig.01.00x.than.html#sutta-17


    ※※※※※※※※

    (pipitが英訳を日訳するのは自信ないので、英訳文を読んだ感想を書いてみます。)

    ダンマー長老尼

    Wandering for alms ―
    感想(托鉢食をお求めに行かれたのですね)

    weak, leaning on a staff,
    感想(身体はもう弱っていて、杖に頼った状態で)

    with trembling limbs ―
    感想(手足は震えている)

    I fell down right there on the ground.
    感想(大地に倒れてしまわれた)

    Seeing the drawbacks of the body,
    感想(その身体の危難を観じられて、理解されて)

    my mind was then
    set free.
    感想(ダンマー長老尼さまの心はその時、解脱されたのですね。)



引用返信/返信 削除キー/
■9970 / inTopicNo.6)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2020/12/12(Sat) 10:53:05)

    私は、時さんと仏教・仏典についての会話をさせていただいて、本当に嬉しいです。

    この場を作ってくださってるパニチェさんにも、
    メビウスリングの管理人さまにも、感謝しています。

    縁は不思議ですね。ありがとうございます m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■9951 / inTopicNo.7)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/12/12(Sat) 00:47:44)
    pipitさんへ

    こんばんは。返信をありがとうございます。

    > あ、今思い出しましたけど、八正道にしても、いろんな説かれ方もあるかもしれませんね。
    > 時さんは、中部経典〉後分五十経篇〉不断の章〉117.『大四十経』を読まれたことはありますか?
    >
    > 昔、この経典を解説された施本をいただいたことがあるのですが、難しすぎて私にはきちんと理解することができなかったのですが、もしかしたら時さんだったら興味深く読むことができるのかな、と、思いました。

    中部117経典大四十経ですね。勿論、読んだことはあります。八支聖道のいろいろな説かれ方と言いますか、八支聖道と八支邪道の2種に分けて、その八支聖道を世間と出世間でのもの2種に分けているのだと思います。

    ・八支聖道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
    ・八支邪道(邪見・邪思惟・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定)です。

    実は、先の投稿の正見からの流れも大四十経を念頭においてのものでした。ですが、世間と出世間の法を感覚でつかんでいても、文字としてその世界観の表現が簡単ではありませんね。

    多分ですが、一般に説かれる八支聖道等の仏陀の法は、世間での法ですね。言い換えが簡単ではないのですが、一般的な人(出家比丘)が社会(僧伽)の中でまずは理解すべき教えです。これをマスターしていくと、それ自体が当然のようになります。解脱直前、或いは解脱後の比丘はこのような精神状態だったのだと思います。これ以降を、出世間の法と言われると思います。

    他の経典でも、涅槃の話を仏陀が説いたときなんかに「比丘たちは歓喜した」という文言でくくられる場合が多いのですが、ある経典では「涅槃を涅槃より知覚して考え、涅槃を我が物と考え、涅槃を喜びます。それはなぜか?その対象(涅槃)が遍知されていないゆえ、と私は言います。」といったものがありますが、こういう事だろうと思いますね。世間の範疇では仏陀の法話に歓喜しても、出世間ではその僅かな喜びも当然のように消滅しますしね。

    この二種に分類する事は大乗でも同じですが、仏陀は世間と出世間に分け、大乗では世俗諦と第一義諦に分類しています。

    どちらにしましても最初は教えを心や身体に覚えこませるのに一生懸命で、それに慣れてくると当たり前にできるようになると思います。そのようになれれば、教えも余裕をもって理解実践できるようになりますね。その時くらいからでしょうか。例えばの正見が先行するだのどうのと言うのは。考えて見ると、至極当然の事ですしね。

    所でこのトピも終盤になりましたが、pipitさんは不思議な方だという印象をもちました(^^)

    受=三受=苦・楽・不苦不楽 と言う事をこの前突然に理解されたかと思うと、今回のような難しい大四十経なんていう話題を出される。(笑)何を理解されていて何を理解されたいのか?最後まで見当がつきませんでした。

    元々私自身は教えるという立場をとりませんので、心が平安を継続できているのならばそれでよいと思います。

    > このトピにでも、純粋理性批判トピにでも、時さんの気が向かれた時にいつでもご自由なテーマで投稿なさってくださいね。
    > 様々なことを教えていただき、ヒントをいただき、感謝しています(^人^)

    こちらこそ、大変勉強になりました。お気遣いのお言葉とともに感謝です。また突然の飛び入りで投稿するかもしれませんが、その時にはよろしくお願いします。

    ご返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■9943 / inTopicNo.8)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2020/12/11(Fri) 21:46:18)
    時さん、こんばんは、書き込みありがとうございます(^ ^)

    No9925に返信(時さんの記事)
    > 七科三十七道品(八支聖道、四正断、四念処、五根、五力、七覚支、四神足)は、原始仏典内で説かれている修行法で、これらの一応の定義やその方法等が記載されています。
    >
    > しかし分かり難い印象があるのは、それが時には単独で、時には折り重なっての説明になっているからでしょうか。四聖諦の親フォルダに下部フォルダ・・と言った(時には)重なり合ったツリー構造です。おまけに順不同の説明でとにかく長いです。ですので、何度も何度も挑戦し、何度も何度も間違ってそのたびごとに再度やり直すという事の繰り返しでした。<

    時さんは、経典に一対一で真摯に向き合われてきたんだろうなぁと思います。
    時さんのように、自分の力で経典を読み解いていくのは、もう、瞑想のような印象さえ私は持ちます。


    > 例えば、教えを一言で表すのであれば四聖諦ですが、この中の八支聖道の最初に正見が来ていますが、この正見は、四聖諦に関する智より生じる見解や認識方法の事だと解釈しています。一言では、(四聖諦を基本にした)正しい見方です。この正しい見方を原点として、正思惟→正語→正業→正命→正精進→正念→正定→正智→正解脱が生じる。との記載がありますが、これを知ろうと思えば、正見の原点である四聖諦全体を知る必要があるという、過去には、まるでクラインの壺の中に閉じ込められたような感覚を持ちました。<

    あ、今思い出しましたけど、八正道にしても、いろんな説かれ方もあるかもしれませんね。
    時さんは、中部経典〉後分五十経篇〉不断の章〉117.『大四十経』を読まれたことはありますか?

    昔、この経典を解説された施本をいただいたことがあるのですが、難しすぎて私にはきちんと理解することができなかったのですが、もしかしたら時さんだったら興味深く読むことができるのかな、と、思いました。


    > 人は無明ゆえに意識的に或いは無意識に心に苦を生み出すような行いをします。との仏典記載より、無明→(無明ゆえの)行と言う流れが出来上がります。人が無明だから苦しみを生み出す行いとなるのであれば、無明を滅尽できれば無明ゆえの行(身口意)ではなくなると言う事です。そしてこの無明は、四聖諦を知らない事。と言う定義の記載があります。つまりは、最終的に四聖諦を知ることが出きれば無明は滅尽できると言う事で、その前には正見を得ることができると言う事になります。正見を知る→正思惟→正語→正業→と言う流れですが、まずは学習して知る→学習をもとにして体験で知る。→四聖諦全体を知る。と言う事だろうと想像します。これは文字の意味を理解して知ることと、その意味を通して全体を知ること(体験)は別ものだろうと言う事です。
    >
    > そしてその四聖諦を知るためには、必然的にまずは多くの仏典の解読が必要になるでしょう。
    >
    > 善法を基本軸にして今までの生活上の物事の対応や思考を正していきつつ、波羅提木叉や感官の防護で自身の心を守りながら学んでいきます。私の場合の教本は、単純に原始仏典のみですが、言葉の定義、教えの順番、学ぶ姿勢、こうすればこうなるという道筋等、全体的に道理の通った教え(教本)だと感じました。
    >
    > 今も昔も感性の鋭く豊かな方はおられるようですが、原始仏典から浮かび上がる仏陀の像もその中のお一人だと感じます。
    >
    > 機根の差こそあれど、仏教は心の平安を獲得し維持継続するために必要な人が学ぶものの一つだと思います。以上です。<

    ありがとうございます(^ ^)
    このトピにでも、純粋理性批判トピにでも、時さんの気が向かれた時にいつでもご自由なテーマで投稿なさってくださいね。
    様々なことを教えていただき、ヒントをいただき、感謝しています(^人^)
引用返信/返信 削除キー/
■9925 / inTopicNo.9)  仏教
□投稿者/ 時 -(2020/12/11(Fri) 11:37:51)
    七科三十七道品(八支聖道、四正断、四念処、五根、五力、七覚支、四神足)は、原始仏典内で説かれている修行法で、これらの一応の定義やその方法等が記載されています。

    しかし分かり難い印象があるのは、それが時には単独で、時には折り重なっての説明になっているからでしょうか。四聖諦の親フォルダに下部フォルダ・・と言った(時には)重なり合ったツリー構造です。おまけに順不同の説明でとにかく長いです。ですので、何度も何度も挑戦し、何度も何度も間違ってそのたびごとに再度やり直すという事の繰り返しでした。

    例えば、教えを一言で表すのであれば四聖諦ですが、この中の八支聖道の最初に正見が来ていますが、この正見は、四聖諦に関する智より生じる見解や認識方法の事だと解釈しています。一言では、(四聖諦を基本にした)正しい見方です。この正しい見方を原点として、正思惟→正語→正業→正命→正精進→正念→正定→正智→正解脱が生じる。との記載がありますが、これを知ろうと思えば、正見の原点である四聖諦全体を知る必要があるという、過去には、まるでクラインの壺の中に閉じ込められたような感覚を持ちました。

    人は無明ゆえに意識的に或いは無意識に心に苦を生み出すような行いをします。との仏典記載より、無明→(無明ゆえの)行と言う流れが出来上がります。人が無明だから苦しみを生み出す行いとなるのであれば、無明を滅尽できれば無明ゆえの行(身口意)ではなくなると言う事です。そしてこの無明は、四聖諦を知らない事。と言う定義の記載があります。つまりは、最終的に四聖諦を知ることが出きれば無明は滅尽できると言う事で、その前には正見を得ることができると言う事になります。正見を知る→正思惟→正語→正業→と言う流れですが、まずは学習して知る→学習をもとにして体験で知る。→四聖諦全体を知る。と言う事だろうと想像します。これは文字の意味を理解して知ることと、その意味を通して全体を知ること(体験)は別ものだろうと言う事です。

    そしてその四聖諦を知るためには、必然的にまずは多くの仏典の解読が必要になるでしょう。

    善法を基本軸にして今までの生活上の物事の対応や思考を正していきつつ、波羅提木叉や感官の防護で自身の心を守りながら学んでいきます。私の場合の教本は、単純に原始仏典のみですが、言葉の定義、教えの順番、学ぶ姿勢、こうすればこうなるという道筋等、全体的に道理の通った教え(教本)だと感じました。

    今も昔も感性の鋭く豊かな方はおられるようですが、原始仏典から浮かび上がる仏陀の像もその中のお一人だと感じます。

    機根の差こそあれど、仏教は心の平安を獲得し維持継続するために必要な人が学ぶものの一つだと思います。以上です。
引用返信/返信 削除キー/
■9920 / inTopicNo.10)  1-11 ムッター長老尼の偈
□投稿者/ pipit -(2020/12/10(Thu) 23:58:38)
    こんばんは。
    Access to Insightというサイトにのってる偈を引用させていただきます。
    https://www.accesstoinsight.org/
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/thig/index.html


    (パーリ語、記号は入力できていません)
    1. 11
    11. Sumutta sadhu muttamhi tihi khujjehi muttiya,
    Usukkhalena musalena patina khujjakena ca,
    Muttamhi jatimarana bhavanetti samuhatati.

    (パーリ語辞典で意味を調べたもの)
    1. 11
    11. Sumutta [su-mutta]よく脱した
    sadhu 善い哉
    muttamhi 脱した
    tihi 、ti 3つ
    khujjehi 曲がった
    muttiya,脱
    Usukkhalena
    musalena 、musala杵
    patina 、pati夫
    khujjakena 曲がったca,
    Muttamhi 脱した
    jatimarana 、jati生まれmarana死
    bhavanetti
    samuhatati. 除去する、根絶する

    (英訳)
    I.11 ― Mutta {v. 11}


    So freed! So thoroughly freed am I! ―
    from three crooked things set free:
    from mortar, pestle,
    & crooked old husband.
    Having uprooted the craving
    that leads to becoming,
    I'm set free from aging & death.

    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/thig/thig.01.00x.than.html#sutta-11

    translated from the Pali by
    Thanissaro Bhikkhu

    パーリ語のUsukkhalenaがなにかわからなかったのですが、中村元先生訳では、臼となっていました。
    臼と杵と旦那さんから見事に逃れました、と(^^;)
    出家して、生死からも逃れた、と。

    旦那さんは旦那さんで、お幸せになってるといいですね(^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■9858 / inTopicNo.11)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2020/12/08(Tue) 23:07:03)
    No.9835
    時さん、こんばんは。お返事ありがとうございます!

    四念処が説かれている『大念処経』に目を通してみました。

    ちょっとずつでも、できることを試してみたいです。

    いつもいろいろありがとうございます(o^^o)

引用返信/返信 削除キー/
■9835 / inTopicNo.12)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/12/07(Mon) 21:34:12)
    pipitさんへ

    こんばんは。ご返信をありがとうございました。

    > この箇所のフレーズ、印象深くて、心に残っています。
    > 手持ちの片山先生訳では、『ここかしこで歓喜する渇愛』というフレーズで訳されていて、 臨場感あふれるというか(^^;)

    そうですね。渇愛と執着は、同時発生、同時消滅です。

    > 何かの見解に触れた時、その見解の内容ではなく、自分の内に起こる受を見るといい、
    > と教えていただいたこと(曲解してたらすみません)は、
    > 私にとってとても貴重なアドバイスとなっています。

    そこがお分かりになるのであれば、それが四念処の中の「受念処」の行になりますね。そしてこれは、見解だけではなくて、ことあるごとに心に沸き起こる受の確認をします。例えば、きれいなサンセットを旅行先で見たとき、道端に捨てあるゴミを見たとき、朝もやの中でジョギングをしているとき等々です。

    楽受の時には貪欲が、苦受の時には瞋恚が、不苦不楽の時にはそこには無明と言う煩悩が出番を待っていると言う事ですね。

    四念処は「身念処・受念処・心念処・法念処」です。その中の

    ・身念処(入出息・行住坐臥・正知・不浄観・四大要素・九段階の死体の推移 身を観続けて住す)
    ・受念処(三受=楽・苦・不苦不楽 三受を観続けて住す)→(正定への移行)
    ・心念処(四無量心 慈(怒)・悲(害心)・喜(不平不満)・捨(貪) 心をそのまま観続けて住す)
    ・法念処(五蓋・五取蘊・六処内外処・七覚支・四聖諦を確認 法を見続けて住す)です。

    一言で表現するのであれば、心をそのまま見つめる行になるでしょうか。勿論、ここで行われる瞑想は観瞑想で、有尋有伺定や無尋有伺定ですね。

    > 実践が難しいのですが、やっぱり、生きてるうちに少しでも実践しなくちゃ、
    > すごーーーーくもったいないですよね!
    > あかんたれですが、できることをすこしずつでも、ひろげていきたいと思いました。

    はい。人間界以外も含めた世界観で、その梵行住の非時と言う事で、適さない時代と言うものが(長34)では説かれています。現代もその非時に入ると思いますが、とにかくやれるだけはやっておきましょうね♪頑張ってくださいね(^^)

    では、今回はこの辺で。
引用返信/返信 削除キー/

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