| 2026/02/14(Sat) 11:14:00 編集(投稿者)
> 仮説だが力をベクトルの矢印ー→で物理では示すが、主観的に表現するとベクトルの矢印ー→の右端は「憎しみ」の感情であり、左端は「愛」の感情ではないか、「憎しみ」を作用とすると、反作用も「憎しみ」であり、「愛」を作用とすると、反作用は「愛」となる。憎しみが突き放す作用とすれば、愛は引き付ける作用がある。 >「憎しみ」の反作用としての「憎しみ」は感覚的には「苦痛」の感情で示され、 >「愛」の反作用としての「愛」は感覚的には「喜び」の感情で示される。 >主観的感情の世界の構造を客観的物理の構造で示すことも、逆に客観的物理の世界の力の構造を主観的に示すことも可能である、といえる。
ここに電信柱があるとする。私が電信柱を強く押すと電信柱は苦痛を覚え、反作用として私を押し返す。すると私も苦痛を覚える。押す力は憎しみの感情とする。 私の感性の世界は電信柱においても同様に存在するのではないか。 世界は事物の世界ではなく、感性に満ちた世界ということになる。 コンクリート建物は誰かの観念の産物、パソコンも誰かの観念の産物。車もテレビもジェット機も家内電化製品も誰かの観念の産物。人間の観念の産物でないものは自然物で都会で見つけるのは難しい。ほとんど観念の産物に囲まれている。 もっとも材料は自然物だが、自然に働きかけて造り出した観念の産物。 唯物論と観念論が統合すれば自然の材料自体も観念的存在。都会は観念でできた世界ということか。クオリアは人間以外においても存在するのではないか。 ただし思考と感性の世界とは分けたほうがいい。電信柱に思考があるとは思えないからだ。
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