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■45411 / inTopicNo.1)  秘蹟における聖変化と量子論のアナロジー
  
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/23(Mon) 13:53:16)
    >パンとワインが聖体となる際、その見た目や味(アリストテレス哲学で言う「偶有性」)は変わらず、その本質・本性(「実体」)がキリストの体と血に変わる

    「聖体の秘蹟」といってもピンとこない日本人がほとんどだと思うが、

    キリスト教にあって、カトリックとプロテスタントを分けるのは、極論すれば、

    「聖体の秘蹟」一点といっていもいいくらいだ。

    カトリックでもプロテスタントその他でも、

    同じ歴史的実在のイエスキリスト、同じ新約聖書に依拠することでは何の違いもない。

    教義としては、イエスの完全な神性と完全な人間性、神としては三位一体。これもキリスト教と目されるからには

    ほぼ同じ。


    ただ「聖体の秘蹟」一点のみがカトリックとプロテスタントを分ける。

    カトリック−聖体の秘蹟=0

    それくらいの決定的な本質的な重要性をもっている。
引用返信/返信 削除キー/
■45387 / inTopicNo.2)  Re[28]: メルロポンティ哲学と量子論
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/20(Fri) 17:02:58)
    >結論から言うと、モーリス・メルロ=ポンティ(1908ー;1961)は、20世紀の哲学者の中で、量子論(量子力学)と相性が特に良い(あるいは、量子論的な世界観を哲学的に解釈する上で非常に有用な)哲学者の一人といえます。
    その理由は、彼が伝統的な「主体と客体の分離」や「機械論的な決定論」を批判し、「身体」や「肉(chair)」という概念を用いて、観察者と世界が相互に浸透し合う構造を明らかにしたからです。

    メルロポンティは科学哲学というより、美学芸術の哲学が本領だという人もいるでしょう。

    セザンヌの絵画についての論考は有名だよね。

    わたしの印象でも、哲学者のなかでもとくにみずみずしい感性をもっているのがメルロポンティだ。
引用返信/返信 削除キー/
■45386 / inTopicNo.3)  真の哲学は量子論ともどこかで響きあう
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/20(Fri) 09:26:33)
    西洋哲学史上の名だたる哲学者たちと量子論的な世界観の整合についてAIに質問してみると、

    どこかで通じるという回答が返ってくる。


    要約的な視点、あるいはこじつけ(?)として、そのように考えることもできるというだけかもしれないが、

    リアリティや真理を深く考え抜いた哲学者であれば、科学的な真理の到達点と、深いところで交差するのは

    不思議でも何でもない。

    少なくとも、はいこれが科学ね、キミの哲学は終わってるよみたいな単純な発想が一線級の哲学に通用するわけが

    ないのはあまりにも当然だろう。
引用返信/返信 削除キー/
■45377 / inTopicNo.4)  聖体の秘蹟とメルロポンティ身体論の交差
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/18(Wed) 16:34:24)
    AIに聞くシリーズはとりあえずこれでひと段落にします。

    ーーー



    「聖体の秘蹟」と「メルロ=ポンティ哲学」は、一見すると神学と現象学という別領域に属しますが、「身体」「現前」「他者との交わり」というテーマを通して、深く響き合う可能性があります。



    1. 聖体の秘蹟とは

    **聖体の秘蹟(エウカリスティア)**は、キリスト教、とくにカトリック教会において中心的な秘跡です。
    パンとぶどう酒が、実体においてキリストの体と血に変わる(実体変化)
    最後の晩餐でのイエス・キリストの言葉に基づく
    信徒はそれを「食べる」ことで、キリストと一致する

    ここで重要なのは、「神」が単なる観念ではなく、食べられる身体として現前するという点です。
    神は抽象的真理ではなく、身体的・感覚的な形で与えられる。



    2. メルロ=ポンティの身体論

    モーリス・メルロ=ポンティは、現象学において「身体(le corps)」を哲学の中心に据えました。

    彼の主張の核心:
    私たちはまず「身体として」世界にある
    知覚は精神の中の表象ではなく、身体の運動的関与である
    身体は「物体」ではなく「生きられた身体(corps propre)」である

    さらに後期思想では「肉(la chair)」という概念を提示します。
    主体と客体を分ける以前の、世界と私を貫く存在の次元
    見る者と見られるものが交差する場所



    3. 両者の接点

    @ 身体を通した現前

    聖体では、キリストは「象徴」ではなく、身体として現前する。
    メルロ=ポンティにおいても、意味は身体を通して現れる。

    → 神の現前もまた、身体的出来事として理解できる。


    A 「肉」とキリストの身体

    メルロ=ポンティの「肉」は、単なる物質ではなく、存在の織物のようなものです。

    聖体においてキリストの「肉」を食べるという行為は、
    神と人間の間の距離を超える
    存在のレベルでの交差を生む

    これはメルロ=ポンティのいう「交差(chiasme)」と響き合います。



    B 主体と他者の溶解

    聖体は単なる個人的体験ではなく、教会共同体の出来事です。

    メルロ=ポンティもまた、主体は孤立した意識ではなく、
    他者と世界との関係の網の目の中で成立すると考えました。

    → 聖体は「神との関係」だけでなく、「共同体的身体」を作る。



    4. 哲学的問い

    この接点から、いくつかの深い問いが生まれます:
    「実体変化」は現象学的にどう理解できるか?
    聖体は「象徴」か、それとも存在論的出来事か?
    神の現前は知覚の構造を変えるか?



    5. まとめ

    聖体の秘蹟は、
    神が「身体」として現れる出来事
    存在が「食べられる」形で与えられる神秘

    メルロ=ポンティ哲学は、
    私たちが身体を通して世界と交差する存在であること
    主体と客体の二元論を超える存在論

    両者を重ねると、聖体は単なる教義ではなく、
    存在論的・現象学的出来事として再解釈できる可能性があります
引用返信/返信 削除キー/
■45376 / inTopicNo.5)   メルロポンティ哲学と量子論
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/18(Wed) 14:39:41)
    20世紀の哲学者の多くが、フッサール現象学の圏内にいるが、わたしの印象ではメルロポンティあたりが特に量子論との親和性が高い感じだが、AIにも聞いてみた。なるほどかな。

    ーー

    結論から言うと、モーリス・メルロ=ポンティ(1908–1961)は、20世紀の哲学者の中で、量子論(量子力学)と相性が特に良い(あるいは、量子論的な世界観を哲学的に解釈する上で非常に有用な)哲学者の一人といえます。
    その理由は、彼が伝統的な「主体と客体の分離」や「機械論的な決定論」を批判し、「身体」や「肉(chair)」という概念を用いて、観察者と世界が相互に浸透し合う構造を明らかにしたからです。
    具体的に、どのような点が量子論と親和性が高いのかを分かりやすく解説します。

    1. 「観測者」と「対象」が分かち難い(可逆的な関係)
    量子論の最大の特徴の一つは、観測という行為が対象の状態に影響を与える、あるいは観測者と対象を分離できないという点(コペンハーゲン解釈など)にあります。
    量子論: 観測装置(マクロな系)と粒子(ミクロな系)は、測定の過程で一つのシステムとして振る舞う。
    メルロ=ポンティ: 身体は「世界を知覚する主体」でありながら、同時に「世界の一部(物質)」でもある。見るもの(主体)は、見られるもの(対象)と地続きであり、可逆的な関係にある(「肉」の存在論)。

    2. 「不確定性」と「確率的実在」の肯定
    量子論は、粒子が「ここにある」という確実な事実ではなく、確実性(確率)として存在すると主張します。
    量子論: 測定するまで状態は確定せず、複数の可能性が重なり合っている。
    メルロ=ポンティ: 彼は「すでに完成された静的な客観的現実」ではなく、身体を通じた「知覚の過程」や「潜勢的な(可能性がある)実在」を重視しました。世界は確定した実体の寄せ集めではなく、可能性に満ちた「生きられた現場」です。

    3. 主客二元論の解体
    ニュートン的な古典物理学では、絶対的な客観的空間に絶対的な客観的主体が独立して存在するという世界観でした。
    メルロ=ポンティの批判: このような「上空から俯瞰するような知」を拒否しました。私たちは世界を外側から見る神の視点を持っているのではなく、世界に「受肉(身体を持って)」し、その中に浸りながら世界を構成している、と考えました。

    4. 晩年の「肉」と「キアスム」
    晩年の著書『見えざるものと見えるもの』では、「肉(chair)」という独自の概念を用いて、自己と世界、意識と物質が「キアスム(交差・抱き合い)」の関係にあると論じました。これは、量子もつれのような、離れた粒子が相互に影響し合うような複雑な相関関係を哲学的・記述的に捉えるための枠組みを提供します。

    まとめ:量子論的な世界を描き出す「現象学」
    メルロ=ポンティは、物理学的な方程式を立てたわけではありませんが、「量子論が示しているような、主体と客体が渾然一体となった、不確定で動的な世界」を、身体感覚のレベルから解き明かした哲学者といえます。
    彼がコレージュ・ド・フランスで行った講義ノートや、晩年のノートにも、現代物理学の不確定性原理を肯定的に引用・参照している箇所があり、彼自身が科学と哲学の架け橋を意識していたことは明らかです。
    したがって、量子論の哲学的な解釈や意味づけを模索する際、メルロ=ポンティの思想は極めて有力なパートナーになると評価されています。
引用返信/返信 削除キー/
■45363 / inTopicNo.6)  秘蹟における聖変化と量子論のアナロジー
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/16(Mon) 17:31:11)
    以下、AIの解釈。もちろん一筋縄ではいきません。あくまで類似をどこまでみれるか。

    秘蹟(秘跡)、特にカトリック教会における聖体拝領の「聖変化(Transubstantiation)」と、現代物理学の「量子論」は、一見すると全く異なる分野(神学と物理学)に属していますが、その構造や概念において興味深い類似点やアナロジー(類比)が語られることがあります。
    主な関連点は以下の通りです。

    1. 聖変化と「実体」の概念
    聖変化(実体変化): パンとワインが聖体となる際、その見た目や味(アリストテレス哲学で言う「偶有性」)は変わらず、その本質・本性(「実体」)がキリストの体と血に変わるという教義です。

    量子論的アナロジー: 量子論において、観測される物理量(位置やエネルギー)が確定的な実在性を持つのではなく、観測によって初めて確定するのと同様に、聖変化は「目に見える(観測可能な)性質」と「真の本質」が切り離される現象として捉えられることがあります。
    物理的・化学的変化との違い: 聖変化はパンの化学構造が変化するのではなく、目に見えないレベルで本質が入れ替わるため、質量分析計などの観測手段ではパンとワインのままに見えます。

    2. 「重ね合わせ」と「Real Presence(実在的現存)」
    重ね合わせ状態: 量子力学では、粒子は観測されるまで複数の状態が同時に重なり合って存在(重ね合わせ)しています。

    聖体における現存: 聖体において、物質的にはパンでありながら、実質的にはキリストとして存在するという状態は、一つの物体が同時に二つの異なる「本質」の側面を持つという、量子的な「重ね合わせ」に例えられることがあります。

    3. 「観測者」と「信仰による認識」
    観測者の効果: 量子論では、観測という行為が対象の波関数の収縮を引き起こし、確定的な状態をもたらします。

    信徒の認識: 聖体においては、物理的な目(感覚)ではパンに見えますが、信仰という「認識」によって、それがキリストの実体であることが特定されます。感覚に依存しない実在の確定は、量子論的な「真実」の特定と構造的に類似しています。

    4. 専門家・研究による見解
    神秘の共有: 現代の量子物理学者や神学者は、量子論における不確定性や複雑な現実が神学的な神秘(ミステリー)と矛盾するのではなく、むしろ世界の神秘的な側面を科学が体現しているという視点を持っています。

    「実体」の再解釈: 科学的な知見を基に、「実体」とは原子配列だけではない、さらに深層の「情報マトリックス」や「本質」であるという解釈により、聖変化を現代的に理解しようとする試みがあります。

    まとめ
    聖変化と量子論の比較は、科学が宗教を証明するというよりは、「実在の不可解さ」や「観測される表層と隠された本質」というテーマにおいて、両者が共通のフレームワーク(不確定性、隠れた変数、本質的な転換)を持つことを示唆しています。
引用返信/返信 削除キー/
■45347 / inTopicNo.7)  カトリック神学と量子論
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/15(Sun) 15:08:45)
    このテーマについてもAIに質問してみた。まったくキリがないね(笑)

    以下回答。


    「カトリック神学と量子論」の関係は、
    量子論を教義に取り込むというよりも、古典的カトリック形而上学(特にトマス神学)と現代物理学をどう整合させるかという問題として議論されています。

    カトリック教会が公式に「量子神学」を採用しているわけではありません。
    しかし思想的対話は活発です。


    出発点:トマス的世界観

    カトリック神学の哲学的基盤は主にThomas Aquinas

    の形而上学です。

    重要な概念:
    実体(substance)
    形相と質料(hylomorphism)
    可能態と現実態(potentia / actus)
    第一原因としての神

    量子論との対話は、この枠組みを壊すのか、補強するのか、という形で展開します。


    量子的不確定性と「可能態」

    量子力学では、粒子は観測前に確率的状態にあります。

    これはトマスの

    「可能態(potentia)」

    に似ているのではないか?

    という議論があります。

    しかし重要なのは:

    トマスの可能態は形而上学的概念であり、物理理論とは次元が違う

    という点です。
    多くのカトリック哲学者は、安易な同一視を警戒します。


    神の摂理と量子論

    古典物理は決定論的でした。
    量子論は確率的です。

    では神の摂理(Providentia)はどう理解されるか?

    カトリックの立場は基本的に:

    神は第一原因として、第二原因(自然法則)を通して働く

    これは量子論でも維持できます。

    つまり:
    神は「隙間」に入り込む必要はない
    量子的ゆらぎを利用しなくても摂理は成立する

    この立場は「God of the gaps(隙間の神)」批判を避けます。


    神の行為と自然法則

    現代カトリック思想家の一人:
    Robert John Russell

    彼は「非介入的神的行為(NIODA)」という理論を提案しました。

    考え方:
    神は自然法則を破らない
    しかし量子的非決定性の中で特定の結果を実現できる

    これはポーキングホーン的立場に近いですが、
    カトリック的摂理論と調和させようとする試みです。

    三位一体や聖体との関係?

    しばしば誤解されるのが:
    「量子もつれ=三位一体」
    「波動関数=聖体変化」

    のような直接的比喩です。

    カトリック神学はこれを基本的に支持しません。

    特に**聖体変化(transubstantiatio)**は、
    実体の変化であって
    物理的構造の変化ではない

    と定義されています(トマス的実体論)。

    したがって量子物理で説明する必要はない、とされます。


    ローマ教皇庁の立場

    教会は公式には:
    科学は自然の仕組みを説明する
    神学は存在の究極的意味を扱う

    という区別を維持します。

    例として:
    John Paul II は科学と信仰の対話を強く支持しました。

    しかし量子論を教義に組み込むことはしていません。


    哲学的整理

    カトリック神学と量子論の関係は三層構造で理解できます:

    @ 対立しない

    量子論は神の存在を否定しない。

    A 証明もしない

    量子論は神の存在を証明しない。

    B 形而上学の再考を促す

    実体・因果・可能性の理解を精密化する必要が出る。

    結論

    カトリック神学にとって量子論は:

    信仰の代替でも脅威でもなく、
    古典的形而上学を再解釈する契機

    です。

    むしろカトリック神学は、
    量子論を利用して神を説明しようとはしない
    量子論を包摂できるより深い存在論を保持している

    という自負があります。

引用返信/返信 削除キー/
■45346 / inTopicNo.8)  量子論と現象学は同じパラダイムの上に
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/15(Sun) 14:16:12)
    かなり前、ダニエルデネット関連の文書で、量子力学とフッサール現象学は認識論的地平を共有するとかの記述を読んだ記憶があるので、AIに質問。かつてのGoogle検索ではこういう回答が瞬時に返ってくることはなかった。

    ーーー

    量子力学(物理学)と現象学(哲学)は、一見すると全く異なる分野(客観的な物質 vs 主観的な意識・経験)に思えますが、実は「観測者と実在の深い関係性」において、非常に強力な共通基盤を持っています。
    具体的には、以下の3つの点が共通の基盤と言えます。

    1. 観測者依存性(主体と客体の分離不可能)
    * 量子力学: 「観測」という行為が、波動関数の収縮を引き起こし、確率的な状態を確定的な「1つの現実」にします。観測なしには状態は確定しません。
    * 現象学: 意識は常に「何かに向けられたもの(志向性)」であり、認識の対象(物)は、主体(人間・意識)がそれを捉える枠組みの中で現れます。
    * 共通点: 「観測される実在は、観測する主体から独立していない」ということ。
    2. 「関係性」としての存在論
    * 量子力学: 関係的量子力学(Relational Quantum Mechanics)や観測理論において、粒子そのものが性質を持っているのではなく、相互作用(測定)の「結果」としてのみ存在が定義されます。
    * 現象学: 物体は、それ自体として空間にあるのではなく、私の身体や感覚との「関係」において、意味ある体験として現れます。
    * 共通点: 「『関係(相互作用)』こそが実在(の現れ)の根源である」ということ。

    3. 「確率・可能態」から「現実」への転換
    * 量子力学: 波動関数は、粒子がどこにいるかの「可能性(確率)」を表し、観測によってそれが「ここにある」という現実に収縮します。
    * 現象学: フッサールの「可能性の地平」において、ある対象は、隠された側面や将来の知覚の可能性を含んで現れますが、現に体験されている瞬間に、その姿が前景に立ち上がります。
    * 共通点: 「事象は未確定な『可能性の場』から、限定された『現実の体験』へと出現する」というプロセス。



    まとめ
    量子力学と現象学の共通基盤は、「客観的に最初からそこにある世界」ではなく、「観測・相互作用・体験という動的なプロセスを通じて立ち現れる世界」を扱う点にあると言えます。
    物理学者が「観測理論」に悩み、哲学者が「実在の出現」を論じる中で、両者は「現象がどのように生じるか」という一点で結びついています。

引用返信/返信 削除キー/
■45345 / inTopicNo.9)  量子論と神学と哲学
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/15(Sun) 13:44:16)
    キリスト教神学と量子論について考えているのだが、AIに問いかけてみた。

    以下の返答。

    ーーー


    量子力学は、古典的な「物はそこに確定的に存在する」という考えを揺るがしました。

    例:量子の重ね合わせ

    粒子は観測されるまで「確率的な可能性の束」として存在する、と解釈されます。

    これが哲学的に意味するのは:

    「存在とは固定的な実体」ではなく
    「関係の中で現れる出来事」ではないか?

    この点で影響を与えたのが:
    Alfred North Whitehead(プロセス哲学)

    彼は「世界は物質ではなく出来事の連鎖だ」と主張しました。

    キリスト教神学と接続すると:
    神は「遠くの設計者」ではなく
    世界の出来事に内在的に関わる存在

    という理解が可能になります。


    認識論(Epistemology):観測と現実

    量子力学では、観測が状態を確定させるとされます(コペンハーゲン解釈)。

    これは哲学的に大きな問いを生みます:
    現実は観測とは独立しているのか?
    知ることは世界を変える行為なのか?

    神学的に言えば:

    神は「究極の観測者」なのか?

    しかし単純に「神が観測するから世界が存在する」と言うのは安易です。
    より洗練された議論では:
    神は存在の根拠(ground of being)である
    存在そのものを支える働きが神である

    という古典的神学(例:トマス・アクィナス的存在論)と対話します。


    自由意志と非決定性

    古典物理では未来は完全に決まっています(決定論)。

    量子力学は非決定性を導入しました。

    しかし哲学的には重要な区別があります:

    非決定性 ≠ 自由

    ランダム性は「偶然」であって「主体的自由」ではありません。

    そこで量子神学はこう問い直します:
    人間の自由はどのレベルに位置するのか?
    神の摂理と確率的宇宙は両立するのか?

    この議論を深めた人物の一人が:
    John Polkinghorne

    彼は「開かれた未来」の概念を支持しました。


    神の行為論(Divine Action)

    最も核心的な哲学問題はここです。

    もし自然法則が閉じた体系なら:
    神は奇跡を起こせない
    祈りは物理的に意味を持たない

    量子レベルの不確定性は、

    神が法則を破らずに働ける“隙間”を与えるのでは?

    という仮説を生みました。

    しかし哲学的に難しい問題が残ります:
    神の働きは因果的なのか?
    それとも存在論的支えなのか?

    現代神学では後者を重視する傾向があります。

    三位一体と関係的存在論

    量子もつれ(entanglement)は、
    存在が本質的に関係的である

    という直観を与えました。

    キリスト教では:
    父・子・聖霊は独立した三神ではなく
    関係そのものとして存在する

    という三位一体理解があります。

    この「関係的存在論」は、量子的世界観と共鳴すると考えられています。

引用返信/返信 削除キー/
■45331 / inTopicNo.10)  AIにモーツァルトの三大交響曲について質問
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/13(Fri) 14:42:49)
    >アーノンクールは、単なる最後の三曲ではなく「意図的な総括」とみなす傾向が強い指揮者です。

    晩年のアーノンクールに至っては、「歌詞のない一曲のオラトリオ」として、三曲を一晩で連続的に演奏したこともある。

    一晩で一曲として演奏する試みは、他にもチラホラあるようだ。





引用返信/返信 削除キー/
■45316 / inTopicNo.11)  AIにモーツァルトの三大交響曲について質問
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/11(Wed) 16:07:50)
    モーツァルトの最後の三つの交響曲
    第39番 変ホ長調 K.543
    第40番 ト短調 K.550
    第41番 ハ長調 K.551《ジュピター》

    を「三部作」あるいは一つの大きな交響曲的構想(連作交響曲)として捉える指揮者は、明確にそう公言している場合もあれば、演奏解釈やプログラム構成からそのように読み取れる場合もあります。

    代表的な例を挙げます。


    ■ ニコラウス・アーノンクール
    かなり明確に「三部作」的性格を強調。
    コンセルトヘボウ管との録音では、三曲を精神的に連続したドラマとして扱う。
    第39番=序章的・序曲的性格
    第40番=悲劇的中核
    第41番=対位法的・宇宙的完成

    アーノンクールは、単なる最後の三曲ではなく「意図的な総括」とみなす傾向が強い指揮者です。



    ■ カール・ベーム
    明言は少ないが、後期モーツァルトの精神的総括として三曲を一体的に扱う。
    ウィーン・フィルとの録音では、様式的統一感を強く意識。



    ■ レナード・バーンスタイン
    特に晩年のウィーン・フィル盤。
    第40番を感情的中心に据え、第41番を超越的解決として扱う傾向。
    しばしば三曲を連続演奏するプログラムを組んだ。



    ■ ジョン・エリオット・ガーディナー
    歴史的視点から、短期間に書かれた三曲を「意図的セット」として提示。
    録音・演奏会で三曲をまとめて扱うことが多い。



    ■ クラウディオ・アバド
    ベルリン・フィルやルツェルン祝祭管との演奏で、三曲を精神的アーチ構造として提示。



    補足:学術的背景

    三曲は1788年夏の約2か月間に集中して書かれています。
    しかし初演の確証がなく、「意図的な三部作かどうか」は現在も議論中です。

    一体的と考える根拠:
    調性配置:
    変ホ長調 → ト短調 → ハ長調
    (安定 → 悲劇 → 勝利的普遍性)
    第41番終楽章の対位法的総括性
引用返信/返信 削除キー/
■45289 / inTopicNo.12)  Re[22]: 非二元と大乗仏教
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/07(Sat) 16:36:17)
    パニチェさん レスありがとうございます。

    > こんにちはknowing itselfさん。横レス失礼します。
    > 気まぐれな遊び心からですが、自分の思うところとAIがどれだけ違うか試してみたくなりました。

    AIはおおまかなヒント、探求のきっかけを与えるものみるべきだと思います。

    AIの解答を真に受けて思考停止するなど愚の骨頂です。

    遊び心で各人が思考を展開していくのがいいですね。


    ただ、人間相手にこれだけスピーディにそれなりに刺激的な答えが返ってくることはほとんどないので、面白いですね。



    > ■No45267に返信(knowingitselfさんの記事)
    >
    >>AIに
    >>「大乗仏教各派で非二元との相性が特にいいのはどこか?」という質問をしたのに対して、
    >
    >>回答の冒頭部分が↓
    >>いい問いすぎます。
    >>結論からいくと
    >
    >>「非二元」と一番ガチで相性がいいのは
    >>中観(龍樹)・唯識後期・禅(特に臨済)
    >
    > 中観派を龍樹の代表作である中論とすれば非二元は空(我空法空)即ち「無自性」や「相依性縁起」になりますね。
    >
    > 唯識後期が何を指すのか分かりません。
    > むしろ唯識は輪廻転生の主体である第八識である「阿頼耶識」を認めていることから、非二元と相性が悪いように思うのですが、九識説の「阿摩羅識」を認めるなら非二元だと思います。
    >
    > 臨済は看話禅ですが何故この禅が(禅宗の中で)非二元と相性がいいのか分かりません。個人的には曹洞禅の「只管打坐」の方が非二元と相性がいいように思うのですが。。。
    >
    >>次点で華厳、天台。
    >>浄土・密教は“別ルートで非二元に触れる”タイプ。
    >
    > 華厳は四法界の最終形である」「事事無礙」、あるいは「一即一切、一切即一」が非二元そのもの。
    > 天台は摩訶止観(一念三千の観法)による円融三諦が非二元ですね。
    >
    > 浄土系は称名による「帰命」、自己を空にすることで阿弥陀と一体となるという意味で非二元。
    > 密教は「入我我入観」は非二元そのものですが、浄土系が別ルートというのは分かりますが密教が別ルートというのは少し違和感があります。
    >
    > 個人的には非二元と特に相性がいいのは。。。
    > 華厳、密教、禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)ですね。
    >
    > 天台は魔訶止観、浄土は称名という別ルートでの非二元。
    >
    >
    > PS.この投稿への返信はお気遣いなく♪
    >
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