| 2026/01/16(Fri) 09:17:19 編集(投稿者)
再掲載します。
□投稿者/ Appendix -(2025/09/28(Sun) 12:31:29)
ある理論が正しいかどうかは現実で検証されてわかる。 つまり真理は現実的なものだということ。 すると真理を求める求道者は現実的であらねばならない。 カントの物自体の認識判断の保留(コペルニクス的転回)は理性的ではあっても 現実的ではない。 物の実体はあるか、ないかのどちらかであり、どちらかが現実なのだ。 唯物論か観念論かどちらかが現実なのだ。 それを確かめる方法はないものだろうか。
追記
フッサールは客観的にある実体をドグマとして主観性に置き換えた。 無論、実体は判断停止(エポケー)されるが、理性認識としては 認識できない。だから客観的実体に関しては追求せず、表面的主観性の関係性、 たとえば、ノエシス・ノエマとか認識できる主観性の関係性を追求する。その 結果、意味がないとは言えないが、実体があるか、ないかという現実問題に 蓋をする形になってしまった。物自体というカントの不可知論も同じだ。 立場としては唯物論や観念論とは異なる理性的認識限界を示したもので あるが、その立場は現実的ではない。現実は唯物論か観念論かどちらかなのだ。 ちょうどrestさんが唯物論と観念論の統合について述べているので、私も 可能性を否定しない立場に立ちたいと思っている。 以前restさんが展開していたのは、光や電子の「波と粒子」の二重性から 物質(粒子)の実体は「波」であり、波動エネルギーで示せる、と。 すると人間の主観性も感情の波エネルギーがあり、共通しているのではないか、 と述べていた。感情も起伏のある波で示せる。たとえば客観的世界での破壊的 エネルギーは主観的世界では憎しみの感情で示せる。 仮説だが力をベクトルの矢印ー→で物理では示すが、主観的に表現するとベクトルの矢印ー→の右端は「憎しみ」の感情であり、左端は「愛」の感情ではないか、「憎しみ」を作用とすると、反作用も「憎しみ」であり、「愛」を作用とすると、反作用は「愛」となる。憎しみが突き放す作用とすれば、愛は引き付ける作用がある。 「憎しみ」の反作用としての「憎しみ」は感覚的には「苦痛」の感情で示され、 「愛」の反作用としての「愛」は感覚的には「喜び」の感情で示される。 主観的感情の世界の構造を客観的物理の構造で示すことも、逆に客観的物理の世界の力の構造を主観的に示すことも可能である、といえる。 restさんの「社会哲学」に即していうと、たとえば共同体の類愛は同時に異質なものへの憎しみを派生させている、といえるし、異質な者への愛は同類への憎しみを同時に生じさせているとも言える。
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