| 2020/04/22(Wed) 15:57:02 編集(投稿者)
高校時代にニーチェの次に影響を受けたカミュ。「ペスト」が今またベストセラーになっているらしい。 restさんの投稿もあり、久々に引っ張り出したら、黄ばんで古本になっていたが名著の内容は色褪せない。
****************************************************** P.259 パヌルー(神父)はつぶやいた。「まったく憤りたくなるようなことです。しかし、それはつまり、それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです。」
P.273 「パヌルーの考えは正しいね」と、タルーはいった。「罪なきものが目をつぶされるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなければ目をつぶされることを受け入れるかだ。パヌルーは信仰を失いたくない。とことんまで行くつもりなのだ。つまりそういうことを彼は言おうとしたわけだ。」
P.302 われわれもみんなペストの中にいるのだ、と。そこで僕は心の平和を失ってしまった。僕は現在もそれを捜し求めながら、すべての人々を理解しよう、誰に対しても不倶戴天の敵にはなるまいと努めているのだ。ただ、僕はこういうことだけを知っている──今後もペスト患者にならないように、なすべきことをなさねばならぬのだ。それだけがただ一つ、心の平和を、あるいはそれがえられなければ恥ずかしからぬ死を、期待させてくれるものなのだ。これこそ人人をいたわることができるもの、彼らを救えないまでも、ともかくできるだけ危害を加えないようにして、時には多少いいことさえしてやれるものなのだ。そうして、そういう理由で、僕は、直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心したのだ。
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世界や人生は時に不条理である。 その不条理を神から与えられた苦難であるかの如く信仰者は言う。
神から与えられた不条理を受け入れるために、最後の審判とか、あの世とか、来世を持ち出し、辻褄を合わせる。
如何にも無能な弱者が抱くルサンチマンからの価値転換、天地逆さの奇術に見える。
この生と人間の存在を哲学の中心におく高貴な人間は不条理にあっても自らなすべきこと、律すべきことを自らに課す。 それは審判のためや善因を積んで来世にその楽果を得んがためのものではない。
誰に命じられたり、強要されるものではない倫理道徳を自らが自らに課すことがきる人間としての特権を行使しているだけである。
これをニーチェは君主道徳と呼び、これに対して全知全能の神に対する信仰やドグマからトップダウンで与えられ盲目的に従う倫理観を奴隷道徳と呼ぶ。
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