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■12304 / inTopicNo.85)  Re[7]: ワーグナー
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/01(Sat) 10:02:49)
    floraさんへ

    >>>>ワーグナーの「ニーベルングの指環」のフィナーレです。ワーグナーにはゲルマン神話、ギリシャ悲劇、シェークスピアなどの広範な要素が流れ込んでますが、当然のことながらキリスト教も影響を与えています。そして仏教ですね。仏教への傾倒を語っていますし、仏教オペラを構想していたとか。
    > >>
    > >>「ニーベルングの指環」に限れば、シャークスピアのどの作品(もしくは複数の作品)に影響を受けているとお考えですか?
    >>
    >>個人的な印象で根拠はないかもしれませんが、ワルキューレにはリア王の父と娘の葛藤を思わせられました。あと、神々の黄昏のバーゲンには、オテロのイアーゴーを連想します。
    >
    > 私も個人的な印象で述べますが、まず「魔法の指輪」というコンセプトは、プラトンの国家に出て来る人の正義を説いた「ギュゲースの指輪」を思い出しました。

    もう一つ付け加えますが、トールキンの「指輪物語」となるとほぼ同一テーマで、ワーグナーとトールキンの間での影響関係がどの程度あったのか、考えずにいることは難しいです。「指輪物語」も権力欲と愛の相剋というテーマです。


    > ストーリーの冒頭の3人の乙女の話は、『マクベス』の冒頭にある3人の魔女の思い出させますし、ハーゲンとアルベルヒの関係はハムレットと彼の父の亡霊との関係を連想いたします。
    >
    > 他にもいろいろな要素が断片として入っているんでしょうね。

    ジークリンデとジークムントは、ロミオとジュリエットを思い起こす人もいるかもしれません。
引用返信/返信 削除キー/
■12296 / inTopicNo.86)  Re[6]: ワーグナー
□投稿者/ flora -(2021/05/01(Sat) 00:14:22)
    No12290に返信(knowing itselfさんの記事)
    knowing itselfさん, レスありがとうございます。
    > floraさん レスありがとうございます
    >
    >>こんにちは、横の横失礼いたします
    >>
    > >>おはようございます。横レス失礼。
    > >>
    > >>
    > >>https://youtu.be/AIVHw3_7X-E
    > >>
    > >>ワーグナーの「ニーベルングの指環」のフィナーレです。ワーグナーにはゲルマン神話、ギリシャ悲劇、シェークスピアなどの広範な要素が流れ込んでますが、当然のことながらキリスト教も影響を与えています。そして仏教ですね。仏教への傾倒を語っていますし、仏教オペラを構想していたとか。
    >>
    >>「ニーベルングの指環」に限れば、シャークスピアのどの作品(もしくは複数の作品)に影響を受けているとお考えですか?
    >
    > 個人的な印象で根拠はないかもしれませんが、ワルキューレにはリア王の父と娘の葛藤を思わせられました。あと、神々の黄昏のバーゲンには、オテロのイアーゴーを連想します。

    私も個人的な印象で述べますが、まず「魔法の指輪」というコンセプトは、プラトンの国家に出て来る人の正義を説いた「ギュゲースの指輪」を思い出しました。

    ストーリーの冒頭の3人の乙女の話は、『マクベス』の冒頭にある3人の魔女の思い出させますし、ハーゲンとアルベルヒの関係はハムレットと彼の父の亡霊との関係を連想いたします。

    他にもいろいろな要素が断片として入っているんでしょうね。

引用返信/返信 削除キー/
■12290 / inTopicNo.87)  Re[5]: ワーグナー
□投稿者/ knowing itself -(2021/04/30(Fri) 19:59:03)
    floraさん レスありがとうございます

    > こんにちは、横の横失礼いたします
    >
    >>おはようございます。横レス失礼。
    >>
    >>
    >>https://youtu.be/AIVHw3_7X-E
    >>
    >>ワーグナーの「ニーベルングの指環」のフィナーレです。ワーグナーにはゲルマン神話、ギリシャ悲劇、シェークスピアなどの広範な要素が流れ込んでますが、当然のことながらキリスト教も影響を与えています。そして仏教ですね。仏教への傾倒を語っていますし、仏教オペラを構想していたとか。
    >
    > 「ニーベルングの指環」に限れば、シャークスピアのどの作品(もしくは複数の作品)に影響を受けているとお考えですか?

    個人的な印象で根拠はないかもしれませんが、ワルキューレにはリア王の父と娘の葛藤を思わせられました。あと、神々の黄昏のバーゲンには、オテロのイアーゴーを連想します。


引用返信/返信 削除キー/
■12278 / inTopicNo.88)  Re[4]: ワーグナー
□投稿者/ flora -(2021/04/29(Thu) 23:45:19)
    No12252に返信(knowing itselfさんの記事)

    こんにちは、横の横失礼いたします

    > おはようございます。横レス失礼。
    >
    >
    > https://youtu.be/AIVHw3_7X-E
    >
    > ワーグナーの「ニーベルングの指環」のフィナーレです。ワーグナーにはゲルマン神話、ギリシャ悲劇、シェークスピアなどの広範な要素が流れ込んでますが、当然のことながらキリスト教も影響を与えています。そして仏教ですね。仏教への傾倒を語っていますし、仏教オペラを構想していたとか。

    「ニーベルングの指環」に限れば、シャークスピアのどの作品(もしくは複数の作品)に影響を受けているとお考えですか?

引用返信/返信 削除キー/
■12252 / inTopicNo.89)  Re[3]: ワーグナー
□投稿者/ knowing itself -(2021/04/29(Thu) 08:50:31)
    おはようございます。横レス失礼。


    https://youtu.be/AIVHw3_7X-E

    ワーグナーの「ニーベルングの指環」のフィナーレです。ワーグナーにはゲルマン神話、ギリシャ悲劇、シェークスピアなどの広範な要素が流れ込んでますが、当然のことながらキリスト教も影響を与えています。そして仏教ですね。仏教への傾倒を語っていますし、仏教オペラを構想していたとか。

    それはともかく、このフィナーレは、キリスト教なら最後の審判と世の終わり、仏教なら輪廻の終わりと涅槃を思はせるような、圧倒的なカタルシスです。


引用返信/返信 削除キー/
■12250 / inTopicNo.90)  Re[2]: ワーグナー
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/29(Thu) 08:27:00)
    おはようございます、田秋さん。ニーチェに興味をもっていただきありがとうございます。
    それにしても田秋さんは勉強家ですねぇ〜。見習わなければ。。。。^^;

    No12248に返信(田秋さんの記事)
    > ニーチェは一時ワーグナーに傾倒しましたが、パニチェさんはワーグナーに傾倒したことありますか?

    私はないですね。映画「地獄の黙示録」で空爆シーンに使われた「ワルキューレの騎行」が印象に残っていますが。。。

    > 今期《舞台芸術の魅力》という講義を受けていて、ワーグナーのオペラについての話があり、その流れでニーチェの話も出ました。
    > ニーチェは大学で古典文献学を勉強していましたが、優秀なあまり、博士号も取っていないうちに大学の先生になってしまいました。しかしワーグナーの影響で非文献学的なギリシア神話解釈をしたためその地位にいられなくなったと先生は言っていました。この辺り、パニチェさんは何かコメントがありますか?

    上記については長い引用になりますがこのサイトの「NIETZSCHE WONDERLAND」の宣伝も兼ねて返信させていただきますのでご寛容のほどを。。。^^
    まず古典文献学にワーグナーを持ち込んでギリシア神話を解釈したのはニーチェの処女作「悲劇の誕生」です。
    以下はNIETZSCHE WONDERLAND > 著作群 > 悲劇の誕生より

    『バーゼル大学教授として教鞭を振るっていた頃の処女作。ディオニュソス的とアポロン的を対比させ、ギリシャ悲劇はアポロン的であったがゆえに起こり、今や来るべきディオニュソスを歓迎しようと提起した。当時、師のリッチェルが尽力しバーゼル大学に古典文献学教授として招聘、異例の大抜擢を受けたニーチェではあったが・・・この『悲劇の誕生』は、ギリシャ古典主流解釈から大きく外れるものであり、恩師のリッチェルをして「酔っ払った才能」と酷評され、不評散々な処女作品となった。音楽の精神からの悲劇が生まれたことを非難する裏には、ワグナーがディオニュソスの体現者として描かれており、ニーチェがワグナーを信奉するくらいに傾倒していたことが伺え、ギリシャ古典を利用してワグナーを宣伝したようにも映ったことが、更なる大きな批判を受けた要因でもあった。しかし、内容においては、後のニーチェ哲学の骨格となるディオニュソス(混沌)的こそが、創造において重要な要素となるということを、形を変え何度も訴えており、芸術云々を枝葉と外して見れば、今まさにニーチェの幹が天へ向けて立ち上がろうとしているようにも読める。』

    次にニーチェが24歳で大学の先生になった経緯です。
    以下はNIETZSCHE WONDERLAND > ニーチェ伝 > 大学時代からの引用です。

    『ニーチェはプフォルタ学院を卒業すると、1864年にはボン大学に入学する。ドイセン、ゲルスドルフも一緒である。ボン大学では、高名な文献学者であるヤーン教授とリチュル教授が教鞭をとっていた。
    プフォルタ学院での恩師に、リチュル教授の弟子である人物がおり、その師の影響と推薦によるものであった。初めに専攻したのは、神学と古典文献学であった。ニーチェは母親から神学を学ぶ事を強く勧められるが、結局は自らの希望であった古典文献学に絞ることになる。しかし、ボン大学では学生運動の組織に参加するなどして、あまり熱心に学問をしなかった、と後のニーチェはこの時期の自分を悔いている。

    ニーチェは翌年、ゲルスドルフと共にライプツィヒ大学へ転ずる。
    住まいもライプツィヒに移し、古本屋の二階の部屋を借りた。この古本屋で偶然手に取った、ショーペンハウアーの『意思と表象としての世界』に瞬く間に没入したという有名な一節もこの時期に当たる。
    ニーチェはドイセンやゲルスドルフにもショーペンハウアーを読むようにしきりに勧めた。
    ドイセンは後にショーペンハウアー全集の編集に関わることになるが、「ニーチェが居なかったとしたら、今の自分は無かったかも知れない。」と語ったといわれる。

    リチュル教授もライプツィヒ大学に籍を移していた。
    リチュル教授の勧めにより、ボン大学から移って来た仲間数人と共に、文献学研究会を興すと、彼の才能は古典文献学の分野で大きく花開くことになる。
    この文献学研究会で仲間に大きな賞賛を受けた発表論文がリチュル教授に高く評価され、それをより綿密に練り直した論文が、文献学の専門誌に掲載される事になる。文献学者ニーチェのデビュー作と言ってよい。他に二つの論文を書き上げ寄稿するが、後にこれらの論文がニーチェも予想し得なかった効果を生むこととなる。この時期のニーチェは、文献学者としての学問・研究に勤しんでおり、文献学の客観的・科学的な研究態度を崩しておらず、哲学的な文章をあまり残していない。

    同じ時期、プロシアとオーストリアの間に戦争が起こり、7週間程で終息している。
    プロシア・ビスマルクの小ドイツ主義と、オーストリア・ハプスブルグ家の大ドイツ主義のドイツでの覇権争いである。プロシアの勝利によって、ドイツ国民の念願であったドイツ統一は、プロシア主導で行われる事が決定的となった。ライプツィヒはザクセン王国の首都であり、ザクセン王国はオーストリアと共にプロシアに敵対していた。プロシア軍はライプツィヒを攻撃し陥落させるが、ニーチェや他の一般市民の生活への影響はそれほど大きくなかったらしい。

    ニーチェはプロシア国籍であるが、ザクセン人から迫害されることもなく、プロシアに占領されたライプツィヒの様子などを、エリーザベトに手紙で書き送ったりなどしている。
    ヨーロッパでの戦争が凄惨な様相を呈するのは、近代兵器が発達し総力戦が行われる第一次世界大戦以後のことであり、当時の戦争はまだ騎士道や個人的な勇気の通用する、ある意味では暢気で道徳的なものであった。
    ライプツィヒ大学では、エルヴィン・ローデという才能溢れる人物と知り合いになり、親交を暖め合う事になる。ニーチェは少数の友人と親密に付き合う事を好み、しかも相手に対し、教育的に接する事が多かった。

    しかし、ローデとは珍しく非常に対等な関係を築いていった。しかし、その交友が大きく発展した時期、ニーチェは兵役義務によってナウムブルグの野戦砲兵騎馬部隊に入隊する事になる。
    兵役中にニーチェは落馬によって重症を負い、半年程の療養期間を経て、ライプツィヒ大学に復学する。
    スイスのバーゼル大学古典文献学科教授で市の教育参事官でもあったヴィルヘルム・フィッシャーは、同僚のキースリング教授がハンブルグに転じる為に生じる空席を、有能な研究者によって埋めようとし、方々の文献学者達に相談していた。若く才能あふれるニーチェを愛するリチュル教授は熱烈にニーチェを推薦した。ニーチェは未だ大学生であり、教授資格はおろか学位さえ持っていなかった。しかし、かつて専門誌に書いた論文は大きな注目を集めており、文献学の将来を担う若手文献学者としてのニーチェの評判は高かった。フィッシャーの異例の決断により、ニーチェはバーゼル大学に招聘される。ライプツィヒ大学も、専門誌の論文で学位資格付与に足るとし、ニーチェの学位論文や試験を免除し、学位を与えた。ニーチェはバーゼル大学への赴任により、プロシア国籍を脱し、スイス市民となった。1969年、ニーチェは弱冠24歳であった。』

    大学を辞めた経緯は「悲劇の誕生」の不評よりも、大学への反発と健康上の理由からです。
    以下はNIETZSCHE WONDERLAND > ニーチェ伝 > 哲学成熟期からの引用です。

    『幼少の頃より悩まされ続けた頭痛や眼痛発作は悪化し、さらに激しい胃痛や嘔吐も伴うようになった。1879年には教壇に立つことも困難となり、バーゼル大学の教授職を退任し、期せずして執筆活動が中心の日常となる。
    当時の母宛への手紙からは、大学内の雰囲気に対する不満と、文献学への興味の喪失といった要因も見てとれる。』

引用返信/返信 削除キー/
■12248 / inTopicNo.91)  ワーグナー
□投稿者/ 田秋 -(2021/04/28(Wed) 22:41:36)
    パニチェさん、こんばんは

    ニーチェは一時ワーグナーに傾倒しましたが、パニチェさんはワーグナーに傾倒したことありますか?

    今期《舞台芸術の魅力》という講義を受けていて、ワーグナーのオペラについての話があり、その流れでニーチェの話も出ました。

    ニーチェは大学で古典文献学を勉強していましたが、優秀なあまり、博士号も取っていないうちに大学の先生になってしまいました。しかしワーグナーの影響で非文献学的なギリシア神話解釈をしたためその地位にいられなくなったと先生は言っていました。この辺り、パニチェさんは何かコメントがありますか?
引用返信/返信 削除キー/
■12245 / inTopicNo.92)  つぶやきトピ「ドゥーシウムクトゥー」8
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/28(Wed) 20:51:03)
    トピ主:なんさん(NIETZSCHE WONDERLANDの共同制作者の一人)

    「ドゥーシウムクトゥー」

    沖縄の方言で、なんさんによれば、ドゥーは貴方、シウムは思う、クトゥーは述べる、「貴方が思うところのことを述べなさい」とのことです。

    人の意見がどうだとか、常識がどうだとか、そんなことより自分のアイデンティティーを持つことが需要という意味も含まれるらしい。

    軽口、戯言、愚痴、文句、ストレス発散などなど思ったことを気軽に独り言の如くカキコして下さい。

    レスを付けるか、付けられたレスに返信するかしないかも自由です。

    但し、ドゥーシウムクトゥーは「自分で思うこと、ちゃんとした言葉になる前の思想と思索にまとまる前の自分の中でつぶやき」も含まれるとのことなので、その人の見解や意見と同じであるとは限りません。
引用返信/返信 削除キー/

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