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■8328 / inTopicNo.1)  Re[69]: たーぼーさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/10/25(Sun) 13:49:06)
    No8323に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    > >>>>私は思考と本体という風に分けてしまう、つい錯覚してしまうのが自我だと思います。
    > >>>>だから自我なんて実はないと思います。
    >>>>
    >>>>自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    >>>>だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    >>>>個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    >>>>ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    >>>>私が今、書いたことについて、どう思われますか?
    >>
    > >>私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。
    >>
    >>minoriが「区別」という言葉を用いたのは、
    >>「個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。」この文中においてです。
    >>「思考が区別」というのをminoriは、まったく書いていません。
    >>たーぼーさんは、相手の人の書いた文章を理解せずに、それに答えるというのをされることがある、という自覚はありますか?
    >>ここについて、できたら今の内容で確認してみてください。
    >>
    >>minoriはなんか偉そうに。。気分悪い。。と、もしかしたら思われているかもしれないです。
    >>まぁ、そこは想像でしかないわけですけど。。(^▽^;)
    >>
    >>でも、実際、たーぼーさんはパニチェさんにも同じことを指摘されてましたし、この際、「相手の文章、言わんとしているところを理解してから返信する」というのをされたほうがいいと思います。
    >>それは、実際の生活においてもきっと良い影響になると思いますから。
    >>
    >>ということで。 上記、質問させていただいた
    >>
    >>・・・・・
    >>>>自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    >>>>だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    >>>>個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    >>>>ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    >>>>私が今、書いたことについて、どう思われますか?
    >>
    > >>私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。
    >>
    >>minoriが「区別」という言葉を用いたのは、
    >>「個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。」この文中においてです。
    >>「思考が区別」というのをminoriは、まったく書いていません。
    >>たーぼーさんは、相手の人の書いた文章を理解せずに、それに答えるというのをされることがある、という自覚はありますか?
    >>ここについて、できたら今の内容で確認してみてください。
    >>・・・・・
    >>
    >>↑ これについて、よかったら教えてください。
    >>
    >
    >
    > 自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    >
    > こう書いてたから
    >
    > 個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    >
    > そしてこう書いてあったから
    >
    > 私はこう書きました
    > 私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。

    なるほど、なんとなく分かりました。
    minoriは、自我について書いていて、たーぼーさんは、思考について書いている、んですね。

    > 私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。

    ↑ この一文だけを見れば、確かに書かれている内容には納得なんです。
      思考と言ってもその幅は広いですから、「他と区別するための思考」が  
      思考のすべてではないです。

    ただ。自我というものを考えた際、「他者と自分を区別」したものが自我であることは間違いないと思いませんか? (この質問が、今、新たにたーぼーさんにこちらからしたいものです。この部分について、教えてください。)
    他者=自分 であるなら、自我とは言わないですよね。

    自我がどのようにして形成されるかというのを考えてみると、そこには思考が関わっているというのはあると思います。
    他者から「あなたは○○だよ」とか幼少の頃に言われ、そうした記憶が溜まっていき、自分でも自分について思考する中で、自我という自己イメージとも言っていいものが形成されていきます。
    この文脈の中で、自我と思考が繋がってくるのだ、というのをminoriは先の文章で書きたかったのですが、上手く伝わらなかったようです。
    (一つには私の表現が上手くなかったことも原因の一つかもしれません。)


    もう一つ質問したいのですが。
    たーぼーさんは、普段の生活の中で、何か仕事をされながら、または、誰かと会話をしながらとかの際に、自分の思考・感情の動きについていつも気づいていらっしゃいますか?
    気づいていよう、という努力なしに自然に気づいている、気づいていることが自然だ、という状態にいらっしゃいますか?
引用返信/返信 削除キー/
■8327 / inTopicNo.2)  ルパートスパイラ
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/25(Sun) 13:47:46)
    思考と本体である気づきについて、ルパートスパイラは次のように説明します。

    芝居上の人物とそれを演じる俳優本人の関係。シェークスピアのリア王と名優ジョンスミス。ジョンスミスが「気づき」にあたる。

    ジョンスミスがリア王を演じているのであって、ジョンスミス以外に誰かがいるわけではない。同じ一人のジョンスミスがリア王をやっているわけです。ただ、リア王はリアルな存在ではなく、演じられた虚構の役割でしかない。リア王が思考です。思考は確かにものすごく大切だが、リア王をやめてもジョンスミスという一人の人間は生き続ける。
引用返信/返信 削除キー/
■8323 / inTopicNo.3)  Re[68]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/25(Sun) 12:46:31)
    No8321に返信(minoriさんの記事)
    > ■No8314に返信(たーぼーさんの記事)
    >
    > たーぼーさん、レスありがとうございます。
    >
    >>>>私は思考と本体という風に分けてしまう、つい錯覚してしまうのが自我だと思います。
    >>>>だから自我なんて実はないと思います。
    > >>
    > >>自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    > >>だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    > >>個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    > >>ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    > >>私が今、書いたことについて、どう思われますか?
    >
    >>私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。
    >
    > minoriが「区別」という言葉を用いたのは、
    > 「個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。」この文中においてです。
    > 「思考が区別」というのをminoriは、まったく書いていません。
    > たーぼーさんは、相手の人の書いた文章を理解せずに、それに答えるというのをされることがある、という自覚はありますか?
    > ここについて、できたら今の内容で確認してみてください。
    >
    > minoriはなんか偉そうに。。気分悪い。。と、もしかしたら思われているかもしれないです。
    > まぁ、そこは想像でしかないわけですけど。。(^▽^;)
    >
    > でも、実際、たーぼーさんはパニチェさんにも同じことを指摘されてましたし、この際、「相手の文章、言わんとしているところを理解してから返信する」というのをされたほうがいいと思います。
    > それは、実際の生活においてもきっと良い影響になると思いますから。
    >
    > ということで。 上記、質問させていただいた
    >
    > ・・・・・
    > >>自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    > >>だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    > >>個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    > >>ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    > >>私が今、書いたことについて、どう思われますか?
    >
    >>私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。
    >
    > minoriが「区別」という言葉を用いたのは、
    > 「個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。」この文中においてです。
    > 「思考が区別」というのをminoriは、まったく書いていません。
    > たーぼーさんは、相手の人の書いた文章を理解せずに、それに答えるというのをされることがある、という自覚はありますか?
    > ここについて、できたら今の内容で確認してみてください。
    > ・・・・・
    >
    > ↑ これについて、よかったら教えてください。
    >


    自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。

    こう書いてたから

    個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。

    そしてこう書いてあったから

    私はこう書きました
    私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。

引用返信/返信 削除キー/
■8321 / inTopicNo.4)  Re[67]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/25(Sun) 11:52:29)
    No8314に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    > >>私は思考と本体という風に分けてしまう、つい錯覚してしまうのが自我だと思います。
    > >>だから自我なんて実はないと思います。
    >>
    >>自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    >>だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    >>個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    >>ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    >>私が今、書いたことについて、どう思われますか?

    > 私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。

    minoriが「区別」という言葉を用いたのは、
    「個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。」この文中においてです。
    「思考が区別」というのをminoriは、まったく書いていません。
    たーぼーさんは、相手の人の書いた文章を理解せずに、それに答えるというのをされることがある、という自覚はありますか?
    ここについて、できたら今の内容で確認してみてください。

    minoriはなんか偉そうに。。気分悪い。。と、もしかしたら思われているかもしれないです。
    まぁ、そこは想像でしかないわけですけど。。(^▽^;)

    でも、実際、たーぼーさんはパニチェさんにも同じことを指摘されてましたし、この際、「相手の文章、言わんとしているところを理解してから返信する」というのをされたほうがいいと思います。
    それは、実際の生活においてもきっと良い影響になると思いますから。

    ということで。 上記、質問させていただいた

    ・・・・・
    >>自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    >>だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    >>個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    >>ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    >>私が今、書いたことについて、どう思われますか?

    > 私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。

    minoriが「区別」という言葉を用いたのは、
    「個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。」この文中においてです。
    「思考が区別」というのをminoriは、まったく書いていません。
    たーぼーさんは、相手の人の書いた文章を理解せずに、それに答えるというのをされることがある、という自覚はありますか?
    ここについて、できたら今の内容で確認してみてください。
    ・・・・・

    ↑ これについて、よかったら教えてください。

引用返信/返信 削除キー/
■8314 / inTopicNo.5)  Re[66]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/25(Sun) 10:28:31)
    No8312に返信(minoriさんの記事)
    > ■No8299に返信(たーぼーさんの記事)
    >
    > たーぼーさん、レスありがとうございます。
    >
    > >>>> 私にとっては、思考が流れていく空間、静謐な意識が「わたし」です。
    > >>
    > >>>私はどっちも自分自身だと思いますけどね。
    > >>
    > >>たーぼーさんは、そのように感じられるんですね。
    > >>まぁ、たしかに、思考も自分が道具として使う物、自分のところに流れてくるものという意味では自分の持ち物と言えると思います。
    > >>
    > >>でも、本質、本体は、思考が流れていく空間、静謐な意識ですね。
    > >>なぜかというと、何も思考が流れてこない時、何も考えていない時にでも「それ」は存在しているからです。
    > >>それが先立っているからですね。
    > >>思考だけでなく感情についても同じことが言えます。
    > >>
    > >>目に映ったテレビでの報道内容を見て、いろんな感情や思考が浮かんでくることを例に出して考えると・・
    > >>最初はただ、画面と映像が意識に表れている状態に、そこにいろんな感情や思考が表れてきます。
    > >>
    > >>ただ在る開かれた空間としての意識、それが私たちの本質だと思います。
    > >>
    >>Minoriさん、おはようございます。
    >>私は思考と本体という風に分けてしまう、つい錯覚してしまうのが自我だと思います。
    >>だから自我なんて実はないと思います。
    >
    > 自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    > だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    > 個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    > ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    > 私が今、書いたことについて、どう思われますか?


    私は思考は必ずしも他との区別とは思わないです。
    他との区別してなくても、そういった意識がなくても思考している時はあると思いますけどね。
    例えば深く集中して自己を探求しているときは、私は他との区別なんて意識にないです。
    記憶については、確かに他との区別をしていると思います。


    >>ないにも関わらず体を持ってしまっている人間はどうしても錯覚してしまうのだと思うんです。
    >>言葉とは心の音だと言いますけど、これが何よりの証明であって思考と心の働きには本来は別がないのだと思います。
    >
    > 思考というのは、感情が言語化されて表れたもの、という一面があり、その意味においては、感情(心とか一般的に言われます)と思考は繋がっています。
    >
    > 自我というのは、自分は一人の独立した人間である、と思考と記憶の束によって全体から区別するところから発生するのですが、自我自体は何も問題ないんです。
    > 環境や遺伝的要素などから成る特性により、不安、焦り、嫉妬、顕示欲などが自我としての私にくっついて離れなくなる、それが苦しみになるわけです。
    >
    > しかし、自分が、不安、焦りなどに苛まれている、ということに自分で気づくこともできますよね。
    > 思考はそれらには気づけません。 思考は思考であるだけです。
    > 不安、焦り、嫉妬、顕示欲などに気づけるのも、本質は「気づいている意識」だからですよ。
    > もし、それらに気づきもせずに、気の赴くままに不安、焦り、嫉妬、顕示欲などに操られるままに言動している人がいたとしたら、その人は、本質としての「気づいている意識」をまだ見つけていない可能性があります。
    >
    > 今、私が書いたことについて疑問や不明な点があれば、おっしゃってくださいね。

    もう正直この手の議論はやりつくして、あまり意味がないと思います。
    仏陀が解脱に役に立たない議論を戯論といって忌避しましたけど、やっぱりそれが賢いんじゃないかと最近は思っています。
    こういった議論をやって分かるものではない、分かる質が違うと思うんです。
    やっぱりこういった議論をやり続けてるうちは探しているんだと思うんですよ。
    探しているうちは、満足出来ないんではないかと思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■8312 / inTopicNo.6)  Re[65]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/25(Sun) 08:53:14)
    No8299に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    >>>> 私にとっては、思考が流れていく空間、静謐な意識が「わたし」です。
    >>
    >>>私はどっちも自分自身だと思いますけどね。
    >>
    >>たーぼーさんは、そのように感じられるんですね。
    >>まぁ、たしかに、思考も自分が道具として使う物、自分のところに流れてくるものという意味では自分の持ち物と言えると思います。
    >>
    >>でも、本質、本体は、思考が流れていく空間、静謐な意識ですね。
    >>なぜかというと、何も思考が流れてこない時、何も考えていない時にでも「それ」は存在しているからです。
    >>それが先立っているからですね。
    >>思考だけでなく感情についても同じことが言えます。
    >>
    >>目に映ったテレビでの報道内容を見て、いろんな感情や思考が浮かんでくることを例に出して考えると・・
    >>最初はただ、画面と映像が意識に表れている状態に、そこにいろんな感情や思考が表れてきます。
    >>
    >>ただ在る開かれた空間としての意識、それが私たちの本質だと思います。
    >>
    > Minoriさん、おはようございます。
    > 私は思考と本体という風に分けてしまう、つい錯覚してしまうのが自我だと思います。
    > だから自我なんて実はないと思います。

    自我というのは、思考と記憶の束によって形成されているものですよ。
    だから、生まれてから幼少までの期間は、「自我形成はまだされていない時期」とされますよね。
    個別の一人の人間であり、他と区別している、というのが自我です。
    ですから、「ない」と言ったところで大人にはあって然るべきものだと思いますが。
    私が今、書いたことについて、どう思われますか?


    > ないにも関わらず体を持ってしまっている人間はどうしても錯覚してしまうのだと思うんです。
    > 言葉とは心の音だと言いますけど、これが何よりの証明であって思考と心の働きには本来は別がないのだと思います。

    思考というのは、感情が言語化されて表れたもの、という一面があり、その意味においては、感情(心とか一般的に言われます)と思考は繋がっています。

    自我というのは、自分は一人の独立した人間である、と思考と記憶の束によって全体から区別するところから発生するのですが、自我自体は何も問題ないんです。
    環境や遺伝的要素などから成る特性により、不安、焦り、嫉妬、顕示欲などが自我としての私にくっついて離れなくなる、それが苦しみになるわけです。

    しかし、自分が、不安、焦りなどに苛まれている、ということに自分で気づくこともできますよね。
    思考はそれらには気づけません。 思考は思考であるだけです。
    不安、焦り、嫉妬、顕示欲などに気づけるのも、本質は「気づいている意識」だからですよ。
    もし、それらに気づきもせずに、気の赴くままに不安、焦り、嫉妬、顕示欲などに操られるままに言動している人がいたとしたら、その人は、本質としての「気づいている意識」をまだ見つけていない可能性があります。

    今、私が書いたことについて疑問や不明な点があれば、おっしゃってくださいね。
引用返信/返信 削除キー/
■8299 / inTopicNo.7)  Re[64]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/25(Sun) 06:18:41)
    No8296に返信(minoriさんの記事)
    > たーぼーさん、レスありがとうございます。
    >
    > >> 私にとっては、思考が流れていく空間、静謐な意識が「わたし」です。
    >
    > >私はどっちも自分自身だと思いますけどね。
    >
    > たーぼーさんは、そのように感じられるんですね。
    > まぁ、たしかに、思考も自分が道具として使う物、自分のところに流れてくるものという意味では自分の持ち物と言えると思います。
    >
    > でも、本質、本体は、思考が流れていく空間、静謐な意識ですね。
    > なぜかというと、何も思考が流れてこない時、何も考えていない時にでも「それ」は存在しているからです。
    > それが先立っているからですね。
    > 思考だけでなく感情についても同じことが言えます。
    >
    > 目に映ったテレビでの報道内容を見て、いろんな感情や思考が浮かんでくることを例に出して考えると・・
    > 最初はただ、画面と映像が意識に表れている状態に、そこにいろんな感情や思考が表れてきます。
    >
    > ただ在る開かれた空間としての意識、それが私たちの本質だと思います。
    >
    Minoriさん、おはようございます。
    私は思考と本体という風に分けてしまう、つい錯覚してしまうのが自我だと思います。
    だから自我なんて実はないと思います。
    ないにも関わらず体を持ってしまっている人間はどうしても錯覚してしまうのだと思うんです。
    言葉とは心の音だと言いますけど、これが何よりの証明であって思考と心の働きには本来は別がないのだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8296 / inTopicNo.8)  Re[63]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/25(Sun) 05:44:55)
    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    >> 私にとっては、思考が流れていく空間、静謐な意識が「わたし」です。

    >私はどっちも自分自身だと思いますけどね。

    たーぼーさんは、そのように感じられるんですね。
    まぁ、たしかに、思考も自分が道具として使う物、自分のところに流れてくるものという意味では自分の持ち物と言えると思います。

    でも、本質、本体は、思考が流れていく空間、静謐な意識ですね。
    なぜかというと、何も思考が流れてこない時、何も考えていない時にでも「それ」は存在しているからです。
    それが先立っているからですね。
    思考だけでなく感情についても同じことが言えます。

    目に映ったテレビでの報道内容を見て、いろんな感情や思考が浮かんでくることを例に出して考えると・・
    最初はただ、画面と映像が意識に表れている状態に、そこにいろんな感情や思考が表れてきます。

    ただ在る開かれた空間としての意識、それが私たちの本質だと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■8293 / inTopicNo.9)  Re[62]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/25(Sun) 00:01:19)
    No8291に返信(minoriさんの記事)
    > ■No8289に返信(たーぼーさんの記事)
    >
    > こんばんは。レスありがとうございます。
    >
    > >>たーぼーさん、今、他のトピでお忙しそうですが・・・
    > >>質問があるのでよかったらお答えいただけるとと思います。
    > >>
    > >>頭の中を流れていく自分の考えていること、それを「思考」と呼びますけど、
    > >>その思考というのは、たーぼーさんにとって自分自身そのものですか?
    > >>それとも、そうではなく、自分自身そのものではないですか?
    >
    >
    >>勿論、自分自身です。
    >
    > そうなんですね。 私は、思考については自身とは思いません。
    >
    >>禅宗だと、とにかく思考を落とすということに重点を置きますね。
    >
    > この場合の思考というのは、余計なこと考えなくてもいいようなことについてですね。
    >
    >>それもよく分かるんですが、以前も書いたように思考と心が分離してると思うのは錯覚なわけです。
    >>ですから思考も私はそんな毛嫌いする必要もないと思ってます。
    >>だって日常生活を送るうえで思考しなきゃ生きていけないですから。
    >>ただ考えるということは凄く大事で色々考えているうちに雑念が消えてくるんですよ。
    >
    > 好きなこと、興味のあることを考えて集中している時には、それ以外の雑念は湧いてこないということをおっしゃっているのですね。
    > それについては私もそうだなぁ、と思います。
    >
    >>私の場合だと今はもう何かをやっている時は雑念はほとんど湧きません。
    >>おそらく考え尽くした感があります。
    >>でもたまに雑念が湧くと、どうしてその念が湧いたのか追跡します。
    >>そうすると突き詰めて考えると、ああこの記憶が元になってるんだなとか分かります。
    >>そこでどうしてその記憶を大事に持っているのかとか、また追及していくんです(笑)
    >>そんなことをやってると、念が出なくなってきて楽になりました。
    >>私流のやり方で一般的かどうか分かりませんが。
    >
    > そうなんですね。 いろいろと工夫されてられたんですね。
    >
    > >>私は、思考については自身とは思いません。
    >
    > これについてなのですが。私は、頭の中を流れていく思考を自分自身とは思っていなくて、思考が流れていく空間のほうを本質としての自分と思っています。
    > 思考が流れて行って消えた後も、そこにある空間です。
    >
    > 思考・思い、そういうものには私は随分と悩まされてきました、そして上に書いたことが定着するまではたいへんでしたが、今は、思考・思いによって煩わされるということがまずなくなりました。
    > それは、思考が自身ではない、というのが・実際に完全に定着したからだと思っています。
    >
    > 思考は自分自身ではない、そこにアイデンティティを置かなくなってから、思考以外のもの、社会的属性や人格にもアイデンティティを置かなくなってきました。
    > 知識という部分にもそうですね。
    > 私はそんなに頭も良くないですし知識も多くないですが、そうしたことについてもそれはそれ、と自然に思うようになりましたよ。
    > 分からないところは分からないと明確にする、そうしたことが自然になりました。
    > というのも、そうしたことにアイデンティティを置いていないからだと思います。
    > 私にとっては、思考が流れていく空間、静謐な意識が「わたし」です。
    >

    私はどっちも自分自身だと思いますけどね。

引用返信/返信 削除キー/
■8291 / inTopicNo.10)  Re[61]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/24(Sat) 23:36:25)
    No8289に返信(たーぼーさんの記事)

    こんばんは。レスありがとうございます。

    >>たーぼーさん、今、他のトピでお忙しそうですが・・・
    >>質問があるのでよかったらお答えいただけるとと思います。
    >>
    >>頭の中を流れていく自分の考えていること、それを「思考」と呼びますけど、
    >>その思考というのは、たーぼーさんにとって自分自身そのものですか?
    >>それとも、そうではなく、自分自身そのものではないですか?


    > 勿論、自分自身です。

    そうなんですね。 私は、思考については自身とは思いません。

    > 禅宗だと、とにかく思考を落とすということに重点を置きますね。

    この場合の思考というのは、余計なこと考えなくてもいいようなことについてですね。

    > それもよく分かるんですが、以前も書いたように思考と心が分離してると思うのは錯覚なわけです。
    > ですから思考も私はそんな毛嫌いする必要もないと思ってます。
    > だって日常生活を送るうえで思考しなきゃ生きていけないですから。
    > ただ考えるということは凄く大事で色々考えているうちに雑念が消えてくるんですよ。

    好きなこと、興味のあることを考えて集中している時には、それ以外の雑念は湧いてこないということをおっしゃっているのですね。
    それについては私もそうだなぁ、と思います。

    > 私の場合だと今はもう何かをやっている時は雑念はほとんど湧きません。
    > おそらく考え尽くした感があります。
    > でもたまに雑念が湧くと、どうしてその念が湧いたのか追跡します。
    > そうすると突き詰めて考えると、ああこの記憶が元になってるんだなとか分かります。
    > そこでどうしてその記憶を大事に持っているのかとか、また追及していくんです(笑)
    > そんなことをやってると、念が出なくなってきて楽になりました。
    > 私流のやり方で一般的かどうか分かりませんが。

    そうなんですね。 いろいろと工夫されてられたんですね。

    >>私は、思考については自身とは思いません。

    これについてなのですが。私は、頭の中を流れていく思考を自分自身とは思っていなくて、思考が流れていく空間のほうを本質としての自分と思っています。
    思考が流れて行って消えた後も、そこにある空間です。

    思考・思い、そういうものには私は随分と悩まされてきました、そして上に書いたことが定着するまではたいへんでしたが、今は、思考・思いによって煩わされるということがまずなくなりました。
    それは、思考が自身ではない、というのが・実際に完全に定着したからだと思っています。

    思考は自分自身ではない、そこにアイデンティティを置かなくなってから、思考以外のもの、社会的属性や人格にもアイデンティティを置かなくなってきました。
    知識という部分にもそうですね。
    私はそんなに頭も良くないですし知識も多くないですが、そうしたことについてもそれはそれ、と自然に思うようになりましたよ。
    分からないところは分からないと明確にする、そうしたことが自然になりました。
    というのも、そうしたことにアイデンティティを置いていないからだと思います。
    私にとっては、思考が流れていく空間、静謐な意識が「わたし」です。

引用返信/返信 削除キー/
■8289 / inTopicNo.11)  Re[60]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/24(Sat) 21:30:36)
    No8280に返信(minoriさんの記事)
    > たーぼーさん、今、他のトピでお忙しそうですが・・・
    > 質問があるのでよかったらお答えいただけるとと思います。
    >
    > 頭の中を流れていく自分の考えていること、それを「思考」と呼びますけど、
    > その思考というのは、たーぼーさんにとって自分自身そのものですか?
    > それとも、そうではなく、自分自身そのものではないですか?
    >
    >
    > さっき、こちらでは雷がなってました。 今はやんだみたい。


    Minoriさん、こんばんわ。
    勿論、自分自身です。
    禅宗だと、とにかく思考を落とすということに重点を置きますね。
    それもよく分かるんですが、以前も書いたように思考と心が分離してると思うのは錯覚なわけです。
    ですから思考も私はそんな毛嫌いする必要もないと思ってます。
    だって日常生活を送るうえで思考しなきゃ生きていけないですから。
    ただ考えるということは凄く大事で色々考えているうちに雑念が消えてくるんですよ。
    私の場合だと今はもう何かをやっている時は雑念はほとんど湧きません。
    おそらく考え尽くした感があります。
    でもたまに雑念が湧くと、どうしてその念が湧いたのか追跡します。
    そうすると突き詰めて考えると、ああこの記憶が元になってるんだなとか分かります。
    そこでどうしてその記憶を大事に持っているのかとか、また追及していくんです(笑)
    そんなことをやってると、念が出なくなってきて楽になりました。
    私流のやり方で一般的かどうか分かりませんが。
引用返信/返信 削除キー/
■8280 / inTopicNo.12)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/24(Sat) 20:46:38)
    たーぼーさん、今、他のトピでお忙しそうですが・・・
    質問があるのでよかったらお答えいただけるとと思います。

    頭の中を流れていく自分の考えていること、それを「思考」と呼びますけど、
    その思考というのは、たーぼーさんにとって自分自身そのものですか?
    それとも、そうではなく、自分自身そのものではないですか?


    さっき、こちらでは雷がなってました。 今はやんだみたい。

引用返信/返信 削除キー/

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