| No26754、pipitさま、ありがとございます。
pipitさまの「純理」のところに書こうと思ったんだけど、話しの流れと違うくなっちゃうみたいだから、ここに書くことにしました。
pipitさまのところの、 No26753の、 ==================== 【Die Gattung ist Vorstellung ueberhaupt (repraesentatio). 】 (英)The genus is representation in general (representatio). (日)まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、 (D)The genus is representation at all (repraesentatio). ==================== ここのところについて。
ドイツ語、ネットで調べて見ました。 [Gattung] 種類; (文芸作品の)ジャンル; 〘動・植〙属. [Vorstellung] 紹介; 面接; 上演, 興行; イメージ, 心像; 想像; 考え, 観念; 〘哲・心〙表象; ⸨[複]⸩ ⸨雅⸩ 非難, 抗議. [ueberhaupt] @([英] in general)一般に, 概して, もともと. A([英] at all) ⸨否定詞と⸩ 全然(…ない), およそ(…ない); ⸨疑問・非難⸩ 一体全体, そもそも(Das kommt 〜 nicht in Frage. それはまったく問題にならない); ⸨条件⸩ もしも, 仮に. B特に, とりわけ. C⸨undと⸩ ⸨話⸩ それはさておき, それに.
(英)(日)(D)のを参考に、 [Gattung]を「種類」。 [Vorstellung]はこの場合〘哲〙だから「表象」。 [ueberhaupt]は、「一般に」。 ってして、 【Die Gattung ist Vorstellung ueberhaupt (repraesentatio). 】 これ、直訳すると、 〔種類は、表象、一般に(repraesentatio)〕 ってなりました。なんか意味わかんないけど。
>(日)まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、< が、わたし気になったのね。
*<[最上位の]類概念>がどのように出てきたのかがわかんない、っていうこと。 カントので重要なところだと思うけど、でもいまはこれはいいわ。
*もう一つは、「観念」って日訳されてるところ。 (英)(D)でも[representation]ってなってて、[Vorstellung]は「表象」って日訳されるはずじゃない?って。 「観念」は「idea」を日訳するときに使われる、ってわたし見てるから。 いまここではこれを問題としてる。
【(repraesentatio)】が、キモかな?って思ってネットで調べたら、
「表象」、って出てきて、 ・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大百科全書(ニッポニカ)「表象」の解説 一般に心または意識に現前するものを意味する。通常は、representation(英語)、représentation(フランス語)、Vorstellung(ドイツ語)の訳語として使われる。英語、フランス語の語源であるラテン語repraesentatioは「ふたたび(re-)現前せしめること(praesentatio)」を意味することからも明らかなように、「表象」の語は、少なくとも近世以後の用法においては、人間の「意識」の対象定立作用、反省作用に相関する対象の側面を指示する用語として使われる。 ・・・・・・・・・・・・・・ ってあった。 [repraesentatio]ってラテン語だったのね。そして[Vorstellung]は[representation]、日本語で「表象」でいいことが確認できたんだけど、やっぱ「観念」って日訳するのはどうなのかしら?って。
中島義道さんのを書き写しておきます。「現象と表象」って題してあって、 ・・・・・・・・・・・・・・ また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。 カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。 ・・・・・・・・・・・・・・・
ここでもやっぱ[Vorstellung]は「表象」って日訳されてる。
あ、ちなみに、現象学の「現象(日)」っていうのは、[Erscheinug(独)]じゃなくて、[ Phanomen(独)] [phenomenon(英)]、[phainomenon(ギ)]。
「物自体」が出てきてるけど、わたしがここで取り出すのは、「表象」の意味の関することだけね。
(a)ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確。 (b)“Erscheinug”(現象)は、何ものかの現れという自動詞の名詞化。物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はない。 (c)“Vorstellung”(表象)は、私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化。私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。
このようなことから、「表象」を簡単にまとめると、 [Vorstellung(独)]=[representation(英)] =「表象(日)」で、 (1)「私が私の前に立てるもの」っていう意味。 (2)ふたたび(re-)現前せしめること(praesentatio)」を意味する。 (3)「表象」の語は、少なくとも近世以後の用法においては、人間の「意識」の対象定立作用、反省作用に相関する対象の側面を指示する用語として使われる。
けっこう“能動的”な意味のように感じる。たんなる〈現れ〉じゃなくて。
カントは、[Vorstellung(表象)]をこういう意味で使ってる、って見ることにしとく。
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