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■26571  Re[24]: 哲学ってなあに?−カントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/09/21(Wed) 19:06:40)
    わたし、カントのについては、小牧治著「カント」、っていう本のを基準としてる。わたしにとってわかりやすかったから。
    ちょっと書き写しておきます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「三角形の内角の和は二直覚である」という判断の場合、三角形、内角、内角の和などの主語のどこを分析しみても、二直覚という述語はでてこない。これは、主語に、まったく新しい意味内容を付加し、主語の含む内容を増加したのである。こういう判断を、カントは、「先天的総合判断」と呼ぶ。これこそ真の真理的な判断であるとした。「先天的」とうのは。「経験的」ではなく、経験を超えて、という意味である。「総合」とは「分析」ではなく、性質の異なったものをあわせ結びつけるという意味である。そこで、「普遍性と必然性をもった真理はいかにして可能であるか」という問いは、「先天的総合判断はいかにして可能であるか」という問いとなる。自然科学的な真理が問題であるとするならば、問題は、「自然科学的な先天的総合判断は、いかにして可能であるか」ということになる。

    自然科学的な真理(あるいは「認識」)は、いかにして可能であろうか。いいかえれば、自然科学上の先天的総合判断は、いかにして可能であろうか。くりかえすまでもないが、ここで問われているのは、自然科学上の(あるいは数学上の)何かある特定の真理(真理の内容)が問われているのではない。そういう真理がどうして構成されるかという、真理を形成ないし方法が問題なのである。

    いっぱんに「自然の真理」を把握するというのは、何かわれわれの外に、われわれから独立して存在している対象を、あるがままにうつし取った場合と考えられている。自然の対象の姿を、あるがままに「表象」できた場合だと考えられている。この一致(対象の姿と表象との一致)が真理であるとしたとき、いったい、その一致をどうして調べることができるのか、何をもってして一致しているとみなすのか、対象は向こう側、表象はこちら側、だれが両者を比較して、その一致を判定するのか。・・・。そこで、「真理とは、外の対象のうつしであるという考え方」が間違っているのではないだろうか。また、「自然の対象の姿を捉えるという場合」、それは、「経験による」ほかないだろう。しかし、経験は、カントが問題にする先天的総合判断(普遍的・必然的な真理)を与えることはできない。そこで、カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。「我々の側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」
    「先天的」(ア・プリオリ)な枠とうのは、生まれながらにある枠という意味ではない。経験的な素材を受け入れてまとめ上げていく(総合してゆく)形式、型、枠、能力である。したがって、自分自身は経験的なものではなく、しかも経験があるかぎり、いつでもそこにまずもって考えられなくてはならない、根本的な形式のことである。こういう先天的な形式によって、構成された対象である以上、それに関し、普遍的・必然的な知識、すなわち真理をもちうることは、あきらかであろう。しかもそれがつくられた対象についての判断であるかぎり、たんなる概念の分析ではない、総合的な判断であることができよう。
    「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。普遍的・必然的な真理(科学的な先天的総合判断)は、われわれが、外のものを正しく描写することに成り立つのではなく、逆に、われわれが、みずからの形式(先天的な)によって、自発的につくりあげたものについての判断なのである。

    みずからの能力による自発的な構成であるかぎり、その構成は、主観的であるといえよう。しかし、経験や対象が存在するかぎり、いつでもその形式的な総合が作用していなくてはならないとするならば、それは同時に客観的である。こういう、われわれの自発性によって、自然の対象や経験が可能になり、そこでのいろいろの法則が把握され、先天的総合判断が成されうるのである。

    いま、眼前にある机は、われわれに見られ、感じられ、触れられる数々の所与をもとにして、われわれがまとめあげて、机として確認している対象である。われわれにとって捉えられた机という姿であり現象である。したがって、それは、机そのものの姿ではない。われわれに与えられる素材がどこからくるのか、その素材がくる源泉はどういうものなのか、いわば机そのものはどういうものなのか、机の本質というべきものは何であるのか・・・それらは、われわれ人間にはわらない。それは、われわれ人間の知的能力(科学的な知的能力)のおよびえぬところなのである。われわれの知的能力のおよび得る範囲は、さきの、経験的世界についてだけである。したがって、その世界を超えて考えることはできない。この世界を超えて天がける思考は、空想や妄想でありえても真理であることはできない。かつての形而上学は、こういう独断をおかしていたのではないだろうか、とカントは批判した。

    われわれの先天的な能力・形式によって、対象や経験が構成されると、カントはいう。しかし、このばあい、わすれてはならぬことは、われわれ人間は、人間であるということである。もし、神ならば、神は思考することによって、ただちに対象を、天地万物を、創造するであろう。しかし、人間がつくるのは、先天的な形式・型、まさに人間としての先天的な能力による組み立てであり、構成であるにすぎない。という意味は、人間には、素材そのものをまでつくりあげることは、許されていないということである。人間は、人間に与えれてくれる材料をまとめあげる(総合する)働きをするのであり、それだけであって、それ以上ではない。われわれは、経験的にあたえられてくる素材をくみたてまとめあげて、まとまりのある経験的世界や自然的対象をつくりあげる。経験的世界ないし自然にかんするわれわれの知識、われわれの判断は、なるほど真理であり、先天的総合判断であることができる。このような真理ないし判断は、たしかに、経験的なものではない。しかし、経験をはなれることはできない。経験から生じるのではないが、経験をはなれ、経験しなくしては成りたたないのである。したがって、自然科学的な真理は、経験の範囲を超えでることはできないのである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「先天的総合判断」ってあるけど、これ、いまでは「超越論的」って日訳することにしてる?それとも「超越論的判断」?よくわかんないけど。いづれにしても「超越論的」のことだと思う。

    長くなっちゃたので、わたしのはまた後で。
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