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No37550 の記事


■37550 / )  Re[67]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/21(Fri) 18:34:15)
    いまのわたしの物語りは、
    No37496の(a-q)。

    No37499の「内的時間意識」について、わたしのもうちょっとあるんだけど、後にするとして、
    次に、「キネステーゼ」っていうの、
    No37189で少し抜粋したけど、めんどくらいから全部書き写しちゃうヨ〜。

    (K-1)‥‥‥‥・・・
    「キネステーゼ」は、ギリシャ語のキネーシス〔運動〕(κίνησις)とアイステーシス〔感覚〕(αΐσθησις)とから合成された述語で、それを直訳してドイツ語でBewegungsempfindungと表示されることもある。フッサールでは、1907年のいわゆる「物」講義(『物よ空間』)や『受動的綜合の分析』、『危機』などで論じられているもので、通常その言葉から想像されるような「運動の感覚」を意味するのではなくて、むしろ運動と感覚との不可分な結合、ないしは運動としての知覚を意味する。
    物は射映する、つまり自らを主体の体験に一挙に与えることなく、つねに多面的に自己を呈示するのであるが、その過程は、フッサールによれば、さらに遡って、その過程に相関的なキネステーゼ的過程と結びついている。たとえば、物はいつもある側面において与えられているが、それは知覚の過程とともに多様に変化して推移してゆくのであって、それを何かの自己呈示態としてとりまとめることではじめて、それは何かある物の現出となる。感覚的に与えられるものには質的契機と延長的契機という二つの契機があり、それぞれアスペクト与件と位置与件と呼ばれるのであるが、これら二つの契機が一体となって働くことではじめて、そのつど感覚に与えられるものが何かある物の自己呈示態となる。言いかえると、物が自己を呈示するときのそのアスペクト与件の変化や交替われわれが身体を自由に動かすことによって可能になる位置与件の変化や交替によって制約されており、感覚する働きはこの身体の運動と一体となることではじめてその呈示機能をはたすことができる。そしてこの感覚と運動の不可分の統一態が「キネステーゼ」と呼ばれるものである。そしてその上で次のように言われる。
    「連続的な知覚においては、一つの物が、直接的な現前という端的な存在確信のうちで私に対して立ち現われている。すなわち、私が、自分の運動感覚を働かせながら、ともに経過するさまざまの呈示を、ともに帰属しあうものとして体験するとき、多様な仕方で自分を呈示する一つの物が顕在的に現前しているという意識が維持される。この物のさまざまな呈示は変移するキネステーゼに帰属している…。顕在的なキネステーゼはキネステーゼ的能力の体系のうちにあるのであるが、この体系には一律調和的に帰属しあう可能的諸契機の体系が相関しているのである。そしてこれが現前している事物をめぐるあらゆる存在確信の志向的背景をなす」と。
    ここでキネステーゼ的能力と言われるのは、身体そのもののもつ構成機能のことである。身体は一方で、その各部分肢が感覚の器官として機能しているわけであるが、他方でそれはいるも「ここ」という位置においてある現出空間の絶対的原点であり、「方向づけの零点」でもある。そしてその身体の各部分肢に局所づけられた感覚が、その身体の変移する位置と連動しながら、物の現出過程を織りなしていく。言いかえると、物の現出の連続的連関と、キネステーゼ的に機能する身体性とが一つに結びついて、物の現出を「キネステーゼ的に動機づけている」わけである。この過程は一方で、主体での方向で、私がいまここにいるという「絶対的ここ」の意識として「私は動く」「私はなす」という自己意識を発生させるとともに、他方では、対象への方向で、その相関者としてキネステーゼ的な領野を「自然の基底」として構成してゆく。こうした身体の根源的機能としてのキネステーゼ的意識は、あらゆる物の経験において、その存在確信の基盤として、いつもすでに世界意識と一体となって働きだしているものである。このようにして物の構成につねに居合わせている、それ自身は主題化されることのないこの構成する身体は、「みずからを呈示することなく呈示を可能にする」ものであって、その意味でまさに「根元的身体」として、われわれの経験の「大地」をなすものであると言ってよい。
    なみに、こうしたフッサールのキネステーゼ論を背景に、さまざまの知覚障害・運動障害の事例を引きながら、感受性(sensibillité)と運動性(motricté)との根源的な連繋関係ならびに「方向づけられた空間」を分析し、そこから身体を世界に対する実践的能力として捉え返したのは、『知覚の現象学』第1部のメルロ=ポンティである。
    ‥‥‥‥・・・

    もうひとつ見つけたの、
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注のなかに、
    (K-2)‥‥‥‥・・・
    Kinasthese:ギリシア語のkinesis(運動)とaisthesis(感覚)からつくられた造語である。当時の心理学界でも「或る特別な筋肉感覚」としての「運動感覚」が論じられていたが、フッサールはそれを根本的に異質な現象学的概念へと改造して使った。「筋肉感覚」は、すでに特定の生理学的・解剖学的知識を前提とする概念であるが、「運動感覚」は、そうした知識をすべて判断停止した後にも残存する、還元すれば、「筋肉」という物体的身体の客観的な運動の手前にある、主観的な働きの感覚である。それは、運動についてもつ感覚なのではなく、むしろ、運動する感覚であるような、動く感覚である。それはまさに、ランドグレーベ門下のウルリッヒ・クレスゲスの言うように、現象学的還元によって獲得される「純粋現象」であった。
    ‥‥‥‥・・・
    ってあった。

    長くなっちゃたので、これについての、わたしのは後にする。

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