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Re[10]: 超越論的分析論Z−2
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□投稿者/ pipit -(2023/10/10(Tue) 00:09:32)
| うましかさん、こんばんはー(^O^)
No33829
> ◇ 第一の注解。この〔カテゴリー〕表は、悟性概念についての四つの部類を含んでいるおり、まずは二つに区分される。その第一区分〔「量」と「質」〕は直観(純粋直観ならびに経験的直観)の諸対象へと向けられている。第二区分〔「関係」と「様相」〕はこれらの諸対象の現存〔Existenz〕(これらの諸対象相互の連関における、さもなければ悟性との連関における)へと向けられている。 > > ◇ 私は前者の部類を数学的<Jテゴリーの部類と名付け、後者の部類を力学的〔dynamischen〕<Jテゴリーの部類と名付ける。表で見られるように、前者〔数学的カテゴリー〕の部類は相関者〔Korrelate〕を持たず、相関者が見いだされるのは後者〔力学的カテゴリー〕の部類においてのみである。この相違はやはり、悟性の本性のうちに根拠を持っているに違いない。<
対象の量(数学的)と、対象の動き(力学的)、かなぁ?
カテゴリーに関する記述を数冊読み直したのですが、 久しぶりに開いた山下和也先生の解説が私にはおもしろく、また、わかりやすくも思えたので引用します。
『カントとオートポイエーシス』山下和也先生著、晃洋書房、p103〜106から抜粋引用 山下先生の解説文章です。 『(略) 思惟するとは直観の多様の下に何らかの一つのまとまりを作ることなのであり、作られたこのまとまりがその客観となる。 カテゴリーとは、表象の多様を連環させて一つのまとまりを作り出す際の普遍的な規則に他ならない。 まず量のカテゴリーの場合、単一性とはそれを一つのまとまりとする規則、数多性とはまとまりを複数作り出す規則、総体性とは複数のまとまりを一つのまとまりとする規則である。 したがって、直観の多様の下で、単一性のカテゴリーによって一つの客観が、数多性のカテゴリーによって複数の客観が、総体性のカテゴリーによって複雑の客観から成る一つの客観が思惟されることになる。 (略) 次に質のカテゴリーのうち、実在性はあるまとまりを存在するものとして、否定性はまとまりを存在しないものとして、制限性はそのまとまりを何らかの非存在すなわち欠損をもつものとして思惟させる規則である。 関係のカテゴリーで言えば、内属性と自存性はまとまりとそれがもつ性質の間の連環、原因性と依存性は一つのまとまりが他方のまとまりの産出を引き起こすという連環を、相互性はまとまり同士の双方向の連環を作り出すという規則になる。 最後に様相のカテゴリーは、可能性-不可能性、現存在-非存在、必然性-偶然性とも、そのまとまりがどのような仕方で作り出されるかを二項的に決める規則になっている。 可能性ならそのまとまりは作り出されることもありうるのであり、不可能性ならありえない。現存在ならそれは現に作り出されており、非存在ならそうでない。必然性ならそれは必ず作り出され、偶然性ならそうとは限らない。 (略) カントの言う形而上学的演繹は、システムの実際の作動としての連環した認識表象産出である判断から、それを可能にする概念コードの項を読み出す試みと言える。 (略) アプリオリに対象に関係しうる概念には、空間、時間とカテゴリーがあるが、「それらの産出の機会原因は経験に求めることができる」、つまり「認識能力の全体をそれに関して開始し、経験を生じさせる第一の契機は感官の印象が与える」(B118)。 要するに実際に概念としての規則が作動するのは、それが働きかける印象が与えられたときである。 カントの言い方では、経験は「感官からの認識への質量と、純粋な直観作用と思惟作用からの、それを秩序づけるある形式」(ibid)とを含むのであり、前者が与えられることを契機として、それに対して後者が作動し、経験が成立する。 オートポイエーシスの言葉で言えば、概念コードに従って認識表象における現れが、感覚すなわち環境からの攪乱を契機として産出されるとき、経験となる。 (略)』 引用終了
しばらくカント的カテゴリー沼が続きそうですね、 おつかれさまです!
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