□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/15(Fri) 20:58:20)
| パニチェさん、こんばんは。 今回は、本題とは少しずれますが、前に言っていた
(藤田一照、永井均、山下良道)『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』(春秋社)
について、一応読了しましたので、感想を少し述べたいと思います。
上に書いたように、読んだのはバージョンUです。 なんでかと言うと、Tを注文しようと思っていた本屋に、たまたまバージョンUだけがあったので、悩みましたが、まあいいやと思って買って読んだんです(笑) で、結果としては、べつにUでもよかったように思います。 3人が評価しているという内山興正老師という人の書いた6つの図、自己漫画と呼ばれているんですかね、それについての説明はけっこう詳しくなされたので、大体理解できたと思います。 また、山下良道さんも自説を明確に主張されたので、だいたいわかりました。 ただ、藤田一照さんは自説の展開が少なかったので、全体像がはっきりとはまだつかめていない感じです。 永井については、それほど新しい情報はなかったと思いますが、哲学素人に説明するからか、わかりやすい説明で、参考にはなりました。 とはいえ、正直なところ、二人の僧が哲学をほとんどご存じないようで(なにしろ西田の「に」もなかったように思います)、自分らが瞑想などの実践を通して得られたことを言語化するために、永井哲学が役立つと思われたようですね。 ですが、私としては、正直もっといいのがあったんじゃないかと思います。 大きなお世話かもしれませんが、とにかく、哲学的に見た場合は、そんなに深い話ではありませんでしたので、バージョンTのほうはもういいかな、って感じですね。
あと、目下話題にしていた No32917 に添付した図5について、まさにパニチェさんが言われたように永井が説明していましたので、一応それを引用しておきます。冒頭の「これは」は、に添付した図5について述べているものと受け取っていただくといいです。
これは本当は、この眼の一に〈私〉があるのではなくて、この眼そのものはこの世界の内部に入るんですよね。眼は見ることはできないけど、物や他人と同じように手で触ることができますから。世界の中にある物でもあるわけです。ただ、現に見えているという、そのことだけが〈私〉です。この視覚としての〈眼〉と物体としての「眼」は別のものです。視覚としての〈眼〉はもちろん手で触ることはできませんし、それをさらに見ることもできません。(上掲書、78頁)
ところで、このバージョンUも、パニチェさんは読まれたんでしたっけね? もし、読まれていて、あるいはバージョンTでもいいのですが、関連する問題について私の見解を知りたいと思われる場合は、そうおっしゃってください。
よろしくお願いします。
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