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No32894 の記事


■32894 / )  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/06(Wed) 16:18:43)
    2023/09/06(Wed) 20:50:16 編集(投稿者)

    こんにちは。ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    時間ができたので返信させてもらいます。

    No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。
    > この作戦は成功だったかな?(笑)

    そうですね。^^

    > 最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。
    > ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑)
    > で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^

    ザビビのふくろうさんが話しても相手する人がいない板なんて、宝が持ち腐れする場でしょう(笑)。
    そんなところは捨て置いて、気が向かれた時には是非ニークラに投稿して下さい♪

    > >>*****************

    >>一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。
    > この「実在」は「実体」とも言えますか?

    「実体」を「真に存在するもの(Wikipedia)」あるいは「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと(日本大百科全書〔ニッポニカ〕)」とするなら、そうです。

    > 補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m

    了解しました。

    >>まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    >>バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    >>触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。

    > そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。
    > 永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。

    ここなんですが、結論(帰結)的には私は同じことを述べていると解釈してます。
    先の説明は「〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。」ということですが、この結論としては「眼が眼自身をみれないことをもって、眼が視野の内部に存在しないのと同様に、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないことをもって〈私〉の存在が世界の内部にはない」ってことになります。

    ここ分かりしくいかもしれませんが視野=世界ではないんですね。
    視野の中に眼がなくても触感で捉える世界内には眼はあります。

    世界内にあるものは感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)の何れかで捉えることはできるが視野に限定した場合は視野世界には眼はない、何故なら「眼が眼自身を見ることができないから」ってことになります。

    > そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?

    それはその通りですね。催眠術をかけられれば無いものが見え、匂うものがなくても匂います。
    感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)は騙すことができますが〈私〉は騙すことができません。

    > 仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、
    > 「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    > ということになりますね。
    > これはどうでしょう?

    ここは未だ分かりません。
    私は弱い独我論支持ですから、世界なくして〈私〉があるのかどうかは、世界がなくなったことがないので分からないってことになります。

    > 上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね?
    > 永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。
    > 確認しますと、
    > T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。
    > ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。

    永井氏も眼が世界内にはないとしていることには同意しますが、ここは少し私の読解と異なる点があります。
    まず永井氏はP28〜P29で図4〜図7を示しています。図5の左端の極点になるのは眼ではなく〈私〉になっています。
    で永井氏はP31にあるウィトゲンシュタインの図の解説*で「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。
    図6は添付した「マッハ的光景」と同じです。

    > で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。

    すみません。上記の「〈私〉と視野との正しい形象化である」ってどこで述べていますか?

    > それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。

    永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
    眼は視野内にはないが、世界内にはあるってことですよね?

    ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。


    > ****************
    > あとですね、先ほどの
    > 「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    > の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。
    > つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。

    > パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。
    > もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか?
    > とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか?

    開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    そこから世界が開けているという意味での開闢です。


    > **************************
    > 以上、
    > 回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。
    > それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m

    全然、大丈夫です。

    ************************************

    > >>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    > >>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。

    >>『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    >>彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?


    > え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか?
    > 私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。
    > むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。
    > いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。
    > ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。

    > ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、
    > 『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。
    > しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。
    > しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。
    > 世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。

    ここも凄く面白い議論になりそうなのですが、このレス交換が一段落した後にしてもらえると嬉しいです。
    一つだけ確認させてもらうとザビビのふくろうさんは独我論という一元論でも我以外の存在、つまり神の存在が成立すると思われますか?

    この返事だけを聞いておいて議論は持ち越しになせてもらえたらラッキーです。

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