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No32876 の記事


■32876 / )  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/05(Tue) 20:51:02)
    こんばんは、時さん。レスありがとうございます。

    No32854に返信(時さんの記事)

    > 私の場合には、特定の宗教や信仰というよりも、インド聖者の悟りといったことに過去の一時期興味を持った時期がありまして、インドに渡り誰かに師事して弟子入りしてと言う経緯もなく、自己流で調べていき学んだのですね。ですので、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルバの4種類のヴエーダの中のどれですか?とか、誰の?どの教室で?とか言ったことにつきましては、分からないのですね。全て、自燈明での独学です。^^

    > しかし今、少し調べてみますと、賛歌の詠唱こそしませんが、リグ・ヴェーダの中のベーダーンタにあたるように思います。

    > 簡単に表現しますと、バクティにより神に全ての運命をゆだねればアドヴァイタの境地に至るという事を2年間ほど実践してみたという事です。当時は、二元の現行世界と、一元のアドヴァイタの世界を行ったり来たりを独り繰り返していたように思います。その途中には、梵我一如と表現される境地の理解も起こりました。なぜインド聖者の悟りに興味を持ったかにつきましては、ご容赦いただければと思います・・

    丁寧に教えていただき、ありがとうございます。

    > ですので、その後にいろいろと知識を得られた結果、言っていたそれは梵我一如ではなくて不二一元の境地と言うのだなと理解が深まったという感じです。そしてその当時には、仏教の”ぶ”の字にも興味がありませんでした。^^

    そうですね。私の友人も「不二一元」と言ってました。
    梵我一如と不二一元というのはどこがどう違うんでしょう?

    > 反りが合わないといえば合わないですし、合うといえば合いそうですね。

    > 私の理解では、当時も今もインドでは、その境地の違いこそあれ、それぞれが悟りだ涅槃だ、これ以上の境地はないのだと、主張しあっているようですので、ごちゃまぜ状態でしょうか。

    > ですので、パニチェさんのご友人のヨガによる涅槃志向も分からなくもありませんが、その涅槃と表現されている境地と、私が原始で学んだ涅槃の境地では、どちらが正しいとか間違いとかではなく、違った境地になるかと思います。

    そうなんですね、正直私にはどこが違うのかよく分かりません。^^

    > 原始の中にも仏陀が苦の滅尽の境地を完成させる以前(修業中)には、恐らくは婆羅門だと思いますが、不二一元(無所有処)の境地の師である、アーラーラ・カーラーマや次の不一不二(非想非非想処)の境地の師である、ウダカ・ラーマプッタに師事したとありますが、これらをすぐにマスターして、最終の境地はこれらではないという事で、仏陀独自の四禅定の道へと進んでいくのですね。

    > 原始の中には、仏陀の弟子のサーリプッタが命終間近の人物に乞われて、その不二一元(無所有処)=梵天界への道を教示して、その人物は命終したというお話があるのですが、後日、そのお話を知った仏陀が、サーリプッタに「なぜ?そのような劣った境地への道を教示したのですか?」と単なる質問とも叱責とも取れるような言葉を語ります。

    > 教えを乞うたその人物が、梵天界に転生したにも関わらずです。・・という事は、梵天界=不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は仏陀の世界観では最高ではないという事になりますね。原始の内容とも矛盾はないようです。

    > その不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は、仏陀の説いた九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の最後から3番目になりますので、仏陀の表現した”劣った境地”であるというのは、仏陀の世界観では間違いではないでしょう。

    ここも正直なところ。。。
    「九次第定」でしたっけ?正直言って私にはよく分からないのです。十牛図はなんとなく分かるんですが。。。

    > ですので、最初インド聖者の悟りに興味を持ち、独自でアドヴァイタを知り、そこでしばらくそれが本当なのかを自身の外部である当時の他掲示板等で発信して、本当に問題が発生しないのかという事を試していました。試した結果、やはり問題は発生しないという事が確認できました。(ザビビのふくろうさんとは、この時期に知り合いましたので、問題ありませんという言葉を連呼していたことは、記憶にあると思います)

    なるほど。掲示板で実験(実践)されていたのですね。

    > ですので、バクティでのアドヴァイタの境地で留まれば、仏教とは相容れないでしょうし、バクティによるアドヴァイタの完成=原始で言う(恐らくの)無所有処の境地だという理解が起これば、原始で言う所の想受滅を目指せるように思います。要は、それぞれの処で無意識にでも執着しないことでしょうか。それ以前には、その無意識での取着に自らが気づく必要がありますね。そのためにも行われるのが、四念処という観瞑想で・・・とお話は延々と続きそうですので、この辺りで(笑)

    ありがとうございます。

    >>すみません、あくまでも興味本位からの質問ですのでスルーしてもらっても構いません。^^
    > いえいえ、とんでもありません。興味を持っていただけるのは、大変有難い事です。^^

    そう言っていただけると有難いです。^^

    > 返信が遅くなり、すみません。

    とんでもありません。

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