□投稿者/ pipit -(2023/08/23(Wed) 12:11:27)
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> >その結果、知覚さえも可能にするすべての総合は、カテゴリーに従う。』<< > > 感性によって与えられると同時に知性による統合が発動するから、知覚段階の対象物は、既にカテゴリーに従ったものとしての総合物、ということかなぁ。 > >>『そして、経験とは結合された知覚による認識であるから、カテゴリーは経験の可能性の条件であり、したがって、すべての経験の対象に対して先験的に有効である。』<< > > 経験する。 > 何を? > カテゴリーによって統一的に総合された対象物を、私は眼識や触識や意識として経験する。 > ってかんじかなぁ。 > > カテゴリーによって編集されていない対象物は、経験不可能?????? > > 『経験』も、カントがこの箇所でどのような意味合いで記してるのかも、ややこしそうだしなぁ > (T . T)
ふと思っただけだから、全然違うかもだけど、
客観的な経験と言うことが可能になるレベルの認識を『経験』という言葉で指すとすると、 カテゴリーによって編纂された事物が、人間にとって、客観に妥当する経験、ってかんじかなぁ。
最近思ってるんだけど、自分がいなくても在ると想定される事物 が 客観に妥当する事物 で、 それを主観から作成するプロセスの一考察として カントを読んだらどうかなぁって。
まあその場合、『自分』についてはとりあえずは棚上げだけどね(今pipitが頭疲れたから)
多分(今までとこれからとで)カントはいろいろ考察してると思うけど、pipitはまだ六分の一まで進んだか進んでないか、みたいな所だからなあ 。゚(゚´ω`゚)゚。トオスギ!
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