□投稿者/ パニチェ -(2022/10/29(Sat) 08:59:07)
| おはようございます、エフニさん。レスありがとうございます。
■No27223に返信(エフニさんの記事) > マルセルは<私>への関心は薄く、関心が薄いとは、つまり「心」との区別をしていなくて、延長がないものが存在するということ、延長がないものが何かを所有するということに、主な関心があったと思います。 > この時にあえて「心と私」を区別していません。
なるほど。
> ですが私(エフニ)は、この二つを区別して、<私>を「心」の上位に持って来ています。
同じです。
> 「無門関」第四十一則 「達磨安心」 > いわゆる、「慧可断臂」の公案では、禅を創った二人の天才は、心と私、を分けているように思えます。 > 慧可は「私の心」を問題としていて、心は私の所有対象となっています。 > 達磨も、慧可の心、慧可の所有する心を出してみろ、と迫っています。
有名な公案ですね。 関西人特有のツッコミ気質からカキコさせてもらうと。。。。
「出してみろ」と言われて「出せない私の心」ってのは唯物論的な問答ではいの? ほな達磨に「法を出してみろ」と言い返したい。 達磨は「諸法実相」とでも返すんでしょうかねぇ〜。^^
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