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Re[12]: 純理の訳の件つづき
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□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/29(Thu) 13:45:53)
| ちなみに 『一般論理学は、認識のすべての内容を切り捨て』は他の日訳では『捨象し』 しかし英訳は abstraction 原文で abstrahiert は「抽象(化)する」。 後半の、 『対象の純粋な思考の規則だけを含む論理学で排除されるのは、経験的な内容からなるすべての認識』 の部分は 英:exclude / 独:ausschliesen : 除く
と抽象化とは異なる言葉が使われる。
ところが続く部分の中山元訳で 『この認識の内容を排除しない論理学は、様々な対象についての私たちの認識の起源についても考察することになるだろう』
と認識自体でなく 認識の内容についても「排除」という言葉を使ってしまい、前段の 『経験的な内容の認識をすべて排除することになる』と照応するかのようにしてしまうのだが、 ここでの「認識の内容を排除しない論理学」というのは中山元さん独自の挿入的説明であり、 原文では「そちらは、」としか書かれていない。 英文では「This kind of logic」と「論理学」を付加
おそらく、中山さんは
「認識のすべての内容を抽象化するわけではない論理学も存在することになろう(=超越論的論理学)」の後に、原文では同じもの(超越論的論理学)について 「対象についての純粋な思考の規則だけを含むものは、経験的な内容を持つすべての認識を単に除外するから」 と書いてあるのに、後者を「一般の論理学」への言及と読んでしまったために、
そこに続く 「それは、」(「この種の論理学は、」) という主部に 『この認識の内容を排除しない論理学は』と説明を加えて、間に入れてしまった「一般の論理学」のことではないことを示さねばならなくなった。 直前に「一般の論理学」の話をして、すぐ次の「それは、」が超越論的論理学だと分かりづらかろうという配慮。
しかし本当は、三つとも超越論的論理学の話なのだから、「それは、」と続けていいわけ。そこはカントが不親切なのではなく。
このこと(「それは、」という書き方)も、前段が超越論的論理学である根拠2 とほんとならできるかもしれないが、何しろカントの文章なので、そこまでは言えない。
*** 根拠2 『直観に、純粋な直観と経験的な直観の区別があるように』として 思考にも『対象についての純粋な思考と経験的な思考の区別があることになろう』 と導いて、新たな論理学(超越論的論理学)を提示している。 そこでの「純粋」の方に対応するのがアプリオリであったり超越論的だろう。 続く文脈での、「対象の純粋な思考の規則だけを含み、経験的な内容からなるすべての認識を排除する論理学』が「一般論理学」を指す、とは考えにくのではないか。
ただ、カントだから「純粋」を異なる意味で2回使ってしまっている可能性はないとは言えないか。 やはり、一般の論理学が「経験的な内容からなるすべての認識を排除する」わけがない、それをやるのは超越論的論理学、という先に書いた理由が一番かな。
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以上、かなり断定的な口調で書いていますが、 異論がありましたら、お願いします。(誰も読んでませんね…)
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