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No26595 の記事


■26595 / )  判断の対象・カント
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/22(Thu) 11:55:15)
    対象と認識の一致を真理の基準にできないならば、真理の基準は何なのかについて、自分にとってタイムリーで分かりやすかったので、こちらにも頂きます。

    No26571(悪魔ちゃんさんの記事)の小牧治著「カント」の引用(部分)
    ***
    『カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。「我々の側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」
    「先天的」(ア・プリオリ)な枠とうのは、生まれながらにある枠という意味ではない。経験的な素材を受け入れてまとめ上げていく(総合してゆく)形式、型、枠、能力である。したがって、自分自身は経験的なものではなく、しかも経験があるかぎり、いつでもそこにまずもって考えられなくてはならない、根本的な形式のことである。こういう先天的な形式によって、構成された対象である以上、それに関し、普遍的・必然的な知識、すなわち真理をもちうることは、あきらかであろう。しかもそれがつくられた対象についての判断であるかぎり、たんなる概念の分析ではない、総合的な判断であることができよう。』***

    「先天的」とあるが生まれつきの意味ではなく、ここでは「経験に先だってある」こと。
    カントの「経験的」は、なにか(物自体)に触発されて受容的に(=感性的に)生じたもの(=感覚)を像に含むこと。
    そのような経験的な素材を
    「我々の側にある先天的(ア・プリオリな)形式・型」(枠・能力)がまとめあげて「自然の対象を、経験を、つくりあげていく」
    このようにして構成したものが判断の対象となる。そのような対象・現象に法則を見出し科学理論を組み立てることもできる。

    ***
    『「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。普遍的・必然的な真理(科学的な先天的総合判断)は、われわれが、外のものを正しく描写することに成り立つのではなく、逆に、われわれが、みずからの形式(先天的な)によって、自発的につくりあげたものについての判断なのである。』***


    ちなみに、こういった判断に関し、最近話題になった御子柴さんの
    『私たちが客観的な判断を下すことができると考えるのであれば、そうしたさまざまな主観的な意識を包み超えた、あるいはそうした主観的な意識に通底する「意識一般」が権利上、考えられねばなりません。』

    この意識一般は超越論的意識とか超越論的主観とも呼べる(たぶん)
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