□投稿者/ pipit -(2022/09/13(Tue) 17:43:18)
| おくたがわさん、こんにちは! pipitはおくたがわさんのトピできて嬉しいなー よろしくお願いします(*^◯^*)♪
過去投稿で物自体を対象とした認識上の不可知性と、認識システムの存在性についてなどを記述して、山下和也先生の本を引用したものがあったので、投稿させていただきます。 ==========過去投稿↓ No20838 pipitはいろいろなものを認識してます。
@例えば目の前の『本』。 このとき、
Aどのように『本』と認識したか、を調べるのが『純粋理性批判』だとすると、
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山下和也先生の言う【二つの視点】とは、
@『本』が観察、観察者は『認識システム(理性)』であり、
A観察者(認識システム)に現れる観察(認識対象)に至る順路を、観察者自身の内部から追った記述
という@Aの視点ということかなと思いました。 ------------------------
このAの視点についての、山下先生の文章を引用します。
『カントとオートポイエーシス』山下和也先生p38.39より引用 『この視点は、いわば認識システム自身の体感になっている。そして、この視点にはシステム自身のその都度の作動しか把捉されない。システムの構造もシステムの環境も、それどころかシステム自身の全体すら把捉されないのである。 システム自身にもシステムそのものは見えないわけで、ルーマンの「システムはそれ自身にとってどこまでも不透明である」(Luhmann 1990: 483)という記述はこれを意味する。 さらに、この視点には環境も他のオートポイエーシス・システムも現れてこない。 ただしそれにもかかわらず、システムそのものにとっての視点はシステム自身の実在を知っている。 なぜなら、この視点の絶対的前提条件はシステムの実在であり、かつ、この視点はまさに実在するシステムそれ自身の視点だからである。システムが実在しないなら、システムそのものにとっての視点も存在しえない。 また環境の実在を把捉するのも、この視点である。 オートポイエーシスの本性上、環境なくしてシステムは実在しえないのであるから。と言っても、把捉できるのは実在だけで、その具体的なあり方までもわかるわけではない。 こうした把捉の仕方は無論、観察ではなく、何かの現れを現す表象の産出とは異なる。 それは否定しようのない直接性をもった把捉である。 こうした把捉の仕方を「直接知」と名付けてみた(山下二〇一〇:一八三)』 引用終了
pipit私見です。
カント哲学において、不可知の対象として設定されている【物自体】という概念に、カントはどうして身も蓋もなく確実な実在性を与えているのか、
という、なぜ? に対する山下先生の考えが、上記引用部分なのではないのか、と思いました。
============過去投稿終了↑
(pipit私見) 山下先生の場合は、オートポイエーシスシステム自体を物自体と捉えて、現れる認識を現象と考えられているようですね。 これも数ある考え方の一つになるのかな、と、思いました。
他にも読者によって様々な解釈がなされているようですね(^^;;
ちなみにpipitがpipitのトピで引用した御子柴先生訳のカントの文章で気になってるのは、 No26322 『したがって、悟性は、まさに現象を〔それとして〕認めることによって、物それ自体の現存在をも容認する。 そして、その限りで、私たちは次のように言うことができる。 諸現象の根拠として存するような何らかのものの表象、したがって、たんなる悟性体の表象は、たんに認められるのみならず不可避である』 の中の 『たんなる悟性体の表象』という言葉。 自信ないのですが、 物自体という対象を悟性だけで表象してる、って意味なのかなぁ、と。 それか、知的直観系??? 全く違うかもなんですけど。
ちょっと気になってました。
それでは失礼しまーす(*^▽^*)
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