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No26334 の記事


■26334 / )  物自体
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/13(Tue) 12:54:57)
    うましかさんが紹介された論文
    『「物自体は存在するか」という伝統的な問題の解決によせて』
    https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/10/kiyou12_02.pdf

    ここから引用しつつ思うところをちょこっと書きます。ただし、全要旨をまとめるものではありません。

    『物自体の存在の問題に関する解釈者の間の不一致が生ずる原因のうち最も重要なものは,この問題について,カント自身が相反する言明をなしている,ということである。
    私は,これが単なる,カントの「筆が滑った」ものとして片づけることができない,真の不整合であるということを認める。
    その上で,私が目指すことは,『純粋理性批判』の全ての主張,ではなく,少なくともその諸主張・議論のうちの重要なものを整合的に理解可能にするような,物自体についての理論を提示することである。』

    『 物自体の存在を証する,カント哲学における論拠としては二種類がある。
    一つは,ヘンリー・アリソンが「意味論的議論」と呼ぶところの,
    《現象が存在するならば,現象してくる当のものが存在するのでなければならない》と論じるものであるが,この論拠の難点はよく知られている。
     本論考が,物自体の存在主張を基礎づける論拠として注目するのは,いわゆる「触発からの議論」というものである。』

    『この議論(いわゆる「触発からの議論」)の中心的論拠は受容性である。ここで,カントにおける受容性の二つの含意を確認しておこう。
    1 [非自発性]我々認識主観が受容する感覚は,我々の自発性の所産ではない。
    2 [他のものからの影響]感覚が生ぜしめられるのは,認識主観とは数的に異なるものが認識主観に影響を及ぼすことによる。

    含意1が受容性の概念のうちに含まれることは明らかだが,無視できない多くのカントの言明は,彼がさらに含意2も受容性の要件とみなしていたことを証拠立てる。
    例えば,「対象が我々を触発する」というタイプの全ての表現がそれにあたる。(自己触発でもない限り,この対象は認識主観とは別のもののはずである。)
    また,こうした表現においては,まさに他のものからの因果的影響すら示唆されている。』

    上記にもとずく「触発からの議論」の
    『Step 2:触発するものは認識主観とは数的に異なるものでなければならない(受容性の含意)』

    について著者は、
    『上の議論はそれ自体で欠陥を持つこともまた示され得る。ここでは特に Step 2に注目しよう。一体どうやったら,我々に感覚が与えられている,ということから,感覚を生ぜしめる我々とは数的に異なるものが存在する,ということを結論することができるのだろうか。
    感覚は,我々の自発性によって生ぜしめられるのではないにせよ,他のものからの影響を全く必要とせず,それ自体でいわば「自動的に」我々の心のうちに生じてくるようなものであるかもしれないではないか?』

    そこで、「触発からの議論」の修正版を著者は提示する。それが以下

    『Step 1:経験的認識のためには,触発によって認識主観に感覚が与えられなければならない。(受容性の事実)
    Step 2:感覚は我々の自発性の所産ではない(受容性の含意)。換言すれば,感覚が我々の心性において生ぜしめられる過程──すなわち,触発の過程──は,我々の自発性に依存しない。 
    Step 3:従って,この過程は,我々の認識にも依存しない。というのも,我々の認識は受容性と自発性の協働によって初めて生じるがゆえに,自発性から独立なものは認識全体からも独立であるはずだからである。 
    Step 4:しかしながら,超越論的観念論によれば,認識から独立なものは空間的対象ではあり得ない。従って,触発の過程は物自体の側で生じている過程であらざるを得ない。──さて,我々には実際に感覚が与えられているから,少なくともそれを生ぜしめる物自体的過程は現実的である(あるいはそのようなものとしての物自体が存在する)。』

    この場合、

    『議論 T は,「物自体 Dinge an sich」についての通常の理解の変更を迫る,ということは強調に値する。議論 T は,触発する物自体が,個体としてイメージされるようないわゆる「物」とは根本的に異なるものであるかもしれない,という可能性を排除しない。
    例えば,「物自体」とは,「我々の心のうちに(自発性から独立に)感覚が生じる」という過程,あるいはその際の単なる秩序のようなものであるのかもしれないし,あるいはそれどころか,およそ我々にとって端的に理解不可能なものでさえあるのかもしれないのだ。(それがともかくも我々の認識から独立に存立するものである,ということだけは理解されるが。)  
    しかし,このような可能性は,カント哲学において「物自体」という語を用いることの障害になるとは考え難い。
    というのも,物自体とは,すでにカント自身の理解において,そのあり方が全く認識不可能なもの,通常の時空的事物とは全く異種なものであるはずだからだ。従って,議論 T が,「物自体」や「触発」のあり方を未規定のままに残す,ということは,カントによる物自体の不可知性テーゼに照らして,よりふさわしいことである,とすら言えよう。』

    この部分は、物自体について自分の持つイメージにしっくりくるものと感じました。
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