| 2024/02/11(Sun) 14:19:34 編集(投稿者)
読了したが、一回じゃ無理なので読み直す(たぶん)。ただ純理よりは遥かに読みやすい(読んでなんとなく分かった気になるだけなら)。 『掘り崩す』は1/3くらい。
今の段階で大雑把に 言葉の意味・文法・使い方のズレなり二重性によって哲学的な問題が生じる 例: 「彼の胃の中は見えない」という経験的不可能 「彼の胃痛を(私が)感じることはできない」という論理的不可能 が同じ「できない」表現で言われることによる混同
ウィトは、言葉の使用法(あるいは文法?)の精査・区別、場合によっては新しい使用法で診断・治療できるとする。 永井均は上記のような独我論や「私」をめぐる問題は、言語やその使用法の「不備」によってではなく、本来あるものが言語の獲得で隠されてしまうところに生じる、どのような言語であろうとも、言語を用いる限り、それは隠されると考えているんじゃないかな。 そして、言語獲得で隠されるそれは病気ではなく、それを病気と診断し(言語で)治療しようとするウィトの方こそが病気なのだと。
誤解ありましたらご指摘を (↑今後は必ずしも書かないかもしれませんが、何らかの解釈を書いた場合、これは必ず付随するはずです)
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