| 仏教を説明するとなると、やはり難しいですね。
仏典内での仏陀が「このように表現した。」というのは、仏典を読んで理解して言葉や文字として表現すればできますが、伝えたかった事というのは言語化でききれないように感じます。なぜならば、言語化する直前には、想念内に何某かの無常なる色等が沸き起こり、夫々の解釈と同時にそれを言語や文字として現すのですから。
仏陀が何を伝えたかったのかという事を強いて表現するのであれば、一切のそのようなことに固執しないで平安でいなさいよという事だろうと思います。というよりも、一切に対する固執がなければ、その他の選択肢はなく、平安でしかないという事なのでしょう。そのようにしか読み解けません。
ここでいう「そのようなこと」と言うのは、論理的にどうとか道徳がどうとか、梵行でのロジックがとか戒律を守るだとか誰かよりも知っているとか知らないとかといった事ですが、このような事柄に固執せず、執着せずに平安でいなさい。という事だったのだろうと思います。当時仏陀は、それを言語化してたのだろうと思います。
一切を尊重せずに、一切からの離貪。貪りは感受より生起するので、感受の生起と滅尽を遍知し、その受の因であるその触の生起と滅尽の法を遍知する。そして離貪する。
迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)の生起の道理は、六内外処から六識が生起し、これら3つで六触です。この六触から三受が生起し、それが想念に沸き起こります。沸き起こった想念について尋して迷妄が生起します。
現代においても、我々凡夫がそれを知るためには、やはりあーだこうだと思考し、そのロジックを考えて、思考内でそれらがつながった時喜びが沸き起こりますが、それが当たり前になった時、その喜びは消滅します。
ある仏典によると、有尋有伺や無尋有伺よりも無尋無伺が優れているという表現がなされていますが、無尋無伺が優れているという事実の理解に至るためには、有尋有伺や無尋有伺を体験しなければなりません。3つの定を知った後の、無尋無伺が優れているという事を知るのですね。ですので、この表現を用いれば、何も知らない人に対して「無尋無伺が優れているのですよね?」と問いかけたとしても、まずは、何の事を言っているのか理解できないはずですね。それは、言葉としての他の2つとの比較での体験においてのその意味内容を知らないからです。
古い業から新しい業へと変化し、やがてその新しい業も滅尽します。これも仏陀の説いた内容から読み解ける道理です。
古い業は、我々不善人の想念の事で、新しい業は、善人の想念。それらを超えた、いわば業の滅尽した境地。業が想念・思念の事ならば、業の滅尽は想の滅尽となり、想受滅となりますね。
五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の中で、受蘊・想蘊・行蘊の因縁は触であるという記載がありますが、触の滅尽が出来たのであれば、少なくとも受蘊・想蘊・行蘊は滅尽できます。色蘊の因縁は、四大種です。残る識蘊の因縁は名色です。
もしも想念の滅尽が起こったのであれば、その時、四大種も名色も消滅するでしょう。
通常我々凡夫は、五取蘊の状態でいます。学得により、五取蘊から五蘊の状態を知ります。この時の教えが五蘊非我です。そして、五蘊の状態をも滅尽した境地というややこし気なロジックが見えてきます。なるほどその境地を直接の言葉で言語化できないはずです。言語化できるとすると、それ以前には尋があり、尋の直前には想があり、受があり、受の直前には触が、識が、六処があるのですから。
算数で、1+5=6。これを3倍すると、(1+5)×3=18 といったような式は、仏教では成り立たないように思います。つまり、戒律を守れば、道徳を守れば、梵行を行えば、心の平安に至るとは言えませんし、戒律を守らなくても、道徳を守らなくても、梵行を行わなくても、心の平安に至るとは言えないという事でしょう。
恐らく仏陀の言っていたことは、それらを捨棄してこれらに拘らず、固執せずに住しなさいという事だったのだろうと思いました。
そこに固執がなければ、論争も起こりえませんし、聖なる沈黙も担保されます。道理です。
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