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■31578 / inTopicNo.85)  Re[10]: 原始仏典の「空」について
  
□投稿者/ 時 -(2023/07/07(Fri) 01:04:26)
    パニチェさん、こんばんは。レスをありがとうございます。

    > 念のため、以下は議論のための質問ではなく、時さんの見解をお伺いしたいというレスです。

    はい。議論は、私はあまり好まないのですね。お話合い程度という認識ならば了解しました。

    > そうです。
    > 『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるでろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない(スッタニパータ1119)』
    >
    > 上記は学生モーガラジャーの『どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?(同1118)』という質問に対しての回答という文脈であることは分かるのですが自己ではなく世界を空とするところが今いちピンと来ません。

    世間と世界は同じlokoやlokamという単語の訳のようですので、文脈によって訳者が使い分けているのでしょうか。

    原始では、見解があると苦から解放されないと説かれます。理由は、そこに固執があるからだという事のようです。ですので、議論はしないとも説かれています。

    パニチェさんが認識されている「空」は、恐らく龍樹の無自性空の空だと思いますが、違っているでしょうか?もしもそうであるならば、仏陀の没後に龍樹が説いたのが、無自性の空ですが。。違ってれば申し訳ないですが。

    『どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?』に対して『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるでろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない』

    死王は見ることがないというのは、多分、輪廻転生しない事と同義だと思います。ですので、死王が見れば、捕まって輪廻転生するという事だと思いました。

    ・自我に固執する見解をうち破って・・自我に固執するというのは有身の状態です。それに固執する見解を持っていると有身見という事で、滅尽すべきものを有しているという意味で好ましくありません。でもここでは、これを打ち破ってですので、有身見の滅尽を目標にするという事で、梵行にはかなっていますね。

    ・世界を空なりと観ぜよ。・・下のレスの >2.調べたところパーリ仏典経蔵中部の・・の所の返信内容にも書きましたので、ご確認いただきたいのですが。

    「世間・世界」を空(からっぽ)と観ぜよ。という事は、空(からっぽ)ならざるものが空(からっぽ)ならざるものとして存在しているという事になりますね。それが「空性(からっぽ)ならざる出世間」という解釈ができそうですが。


    問い『どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?』
    返答『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるでろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない』

    問い「世間をどのように観察すると輪廻しないのですか?」
    返答「自我に固執する見解を持つことなく、世間(界)を空っぽとみえるような境地(出世間=解脱の境地)に到達しなさい。そうすれば、不死の境地(心解脱)に到達しているでしょう。このように世間(界)を見る人の輪廻は終焉します。(死の王は見ることがない)」

    スッタニパータの一文の辻褄を、過去にこれだけ考えたことは在りませんでした。

    > 1.上記の「空」はパーリ語では 「スンニャ」 (sunna)となっているのでしょうか?大乗仏教の根本思想である「空」と同じ原語ですか?

    原始を調べましたところ、sunnatoでした。意味は、空無の、空なる、空のようです。他の経典では、sunnaも使われているようです。

    大乗仏教の空といいますと、龍樹の中論の空のことですね?無自性空や八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の空の事ですね?この語源は、私にはわかりません。
    しかし恐らくですが、大乗の空は、無自性空(くう)で原始の空は空(からっぽ=何もない)という意味に理解していますが、発音的にはどちらも「くう」ですね。

    > 2.調べたところパーリ仏典経蔵中部の『小空性経』や『大空性経』でも空が説かれているとのことでしたがやはり世界が空であることが説かれているのでしょうか?

    原始の中での空という漢字は、空(からっぽ)の意味で使われている様ですね。小空経の場合は、世界がというよりも、瞑想中の事象として、例えば、林の中で独り瞑想しているときに「人、林、地」について、「今、人想については空である」と了知し、「今、林の想についても空である」と了知し、「しかしこれだけは空性ならざるものとして存在している。すなわち、この地想に関する単一性が」と言った具合です。

    この場合には、「人、林、地」の3つの対象について、今は「地」のみに焦点を当てているために、他(人、林)は、空(からっぽ)で、そこに唯一存在している(単一性の)ものが「空性(からっぽ)ならざる地想」です。という事だと理解しています。

    そしてその空(からっぽ)の使われ方ですが、「そこに存在しないものを空とみなし、そこにまだ残存しているものを、これは存在しているとみなす」という。空と存在のあり方のようですね。

    ですので、上記の次に空無辺処という処に移行した瞑想の場合には、「人、林、地、空無辺処」の4つの対象について、「空無辺処」のみに焦点を当てているために、他(人、林、地)は、空(からっぽ)で、そこに唯一存在している(単一性の)ものが「空性(からっぽ)ならざる空無辺処」です。となるようです。

    その理由は、例えば「人、林、地、空無辺処」という順番の場合には、「人」から「空無辺処」に移行するにしたがって、煩わしさが少なくなっていくという事で、「林の想」に焦点を当てた場合には、今まであった「人の想」の煩わしさは、ここ(林の想)ではなくなっているという事で、「この人想についての想類(煩わしさ)は、林想について空(からっぽ)である」と表現されているようです。

    > またこれ以外にも原始仏典で空は説かれているのでしょうか?もし説かれているとすればどのような内容でしょうか?

    原始で空という表現があった場合には、空(からっぽ、空無)という意味で解釈されれば、うまく行くように思います。原始で空が特に説かれているのは、、これら以外には、特に記憶にありません。

    > 3.私は、自己を空なりと達観することによって「私の苦しみ」つまり「苦しむ私(主体)」が空であるから自ずと「私の苦しみ」が滅却する、あるいは「苦しむ無常なる私(主体)」は実相(あるがまま)である世界と合一する存在であるが故に「無常なる私」は「私の苦」とともに消え失せると理解しています。前者は禅的な発想で後者は密教やアドヴァイタ的発想ですが。。。
    > 上記の釈尊の答えは「世界が空なりと達観することによって死苦が滅却する」ということでしょうか?

    上記は、大乗の思想と梵我一如の思想でしょうか。詳しくは忘れましたが。
    原始で説かれてる死(苦)の滅尽というのは、不死の境地という事で、心解脱の事だと理解しています。ですので、解脱したときに「私は解脱した」という智が生じ「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。もうここより他へ輪廻することはもはやない」と知るのですね。解脱とは、自由の境地そのもので、何も縛りや制限がありません。ですので、死の縛りも生の縛りもない境地ですので、ここが梵行の最終、行き止まりの境地だと理解しています。

    ですので「世界が空なりと達観することによって死苦が滅却する」ということではありません。

    解脱→自由の境地→死の縛りの滅尽→次生の原因の滅尽→輪廻の終焉。という図式になるでしょうか。

    アドヴァイタも過去に少し読みましたが、忘れてしまっています。パニチェさんが仰っているのは、多分、龍樹の空の境地の事ですね?もしもそうであるならば、仏陀の説いた瞑想の境地である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)というもので表現しますと、非想非非想処だと私は理解しています。

    つまり、不苦不楽の境地であり、この世では最も高い境地(有頂天)ですね。しかしもしもここであるならば、仏陀曰くのまだ有身、有漏なのですね。つまりは、まだ此岸で彼岸に達していないとなります。

    少し分析してみます。四句分別( @Aである。A非Aである。BAであり、非Aである。CAでなく、非Aでもない。)という概念があるのはご存じかもしれません。

    @とAは通常の二元での境地です。Bは、在ると無いの同時存在の境地で、不二一元の境地です。そしてここからが一元の境地です。Cは、在ると無いの同時非存在の境地で、不一不二の境地です。

    仏陀の説いた「非想非非想処」は、四句分別のC(Aでなく、非Aでもない)に当たります。

    Aに「想」を代入してCに当てはめますと、非想(Aでなく)非非想(非Aでもない)という事で、合わせて、「非想非非想処」です。

    龍樹の空(八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去))を分析しますと、

    ・不生不滅→不を非に便宜上変換します→非生非滅
    ・次に「生」と同じ地平で「滅」を変換すると、滅は「非生」になります。
    Aに「生」を代入してCに当てはめますと、非生(Aでなく)非非生(非Aでもない)という事で、合わせて「非生非非生」で「非想非非想」と同じ構造です。

    最初に戻して、現在の「非」を「不」に変換しなおしますと「非生非非生」→「不生不不生」で、最後の2文字「〇〇〇不生」は「滅」を「生」と同じ地平で変換したものですので、これを「滅」に戻しますと、「不生不不生」→「不生不滅」となりますね。

    後の、(不常不断・不一不異・不来不去)も同じ構造で、仏陀の表現した悲想非非想の境地という事が言えると思います。言語化できる最高の境地である、悲想非非想が後世の龍樹が説いた空の境地だと私は思っています。

    > PS.非我や無我に関しては一旦は横におき、今回は空に絞った質問にさせてもらいました。
    > よろしくお願いします。

    こちらこそ、宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31574 / inTopicNo.86)  原始仏典の「空」について
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/06(Thu) 20:54:39)
    2023/07/06(Thu) 21:08:18 編集(投稿者)

    こんばんは、時さん、レスありがとうございます。
    念のため、以下は議論のための質問ではなく、時さんの見解をお伺いしたいというレスです。

    No31554に返信(時さんの記事)

    > No31438

    >>中村元先生が訳されたスッタニパータの「空」についての一文と、原始佛典での非我あるいは無我関連でお聞きしたいことがありますので、
    > もしかすると、1119の詩の事でしょうか?私の理解する、私の知る範囲でのお話しかできませんが、どのような事でしょうか?

    そうです。
    『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるでろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない(スッタニパータ1119)』

    上記は学生モーガラジャーの『どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?(同1118)』という質問に対しての回答という文脈であることは分かるのですが自己ではなく世界を空とするところが今いちピンと来ません。

    1.上記の「空」はパーリ語では 「スンニャ」 (sunna)となっているのでしょうか?大乗仏教の根本思想である「空」と同じ原語ですか?

    2.調べたところパーリ仏典経蔵中部の『小空性経』や『大空性経』でも空が説かれているとのことでしたがやはり世界が空であることが説かれているのでしょうか?
    またこれ以外にも原始仏典で空は説かれているのでしょうか?もし説かれているとすればどのような内容でしょうか?

    3.私は、自己を空なりと達観することによって「私の苦しみ」つまり「苦しむ私(主体)」が空であるから自ずと「私の苦しみ」が滅却する、あるいは「苦しむ無常なる私(主体)」は実相(あるがまま)である世界と合一する存在であるが故に「無常なる私」は「私の苦」とともに消え失せると理解しています。前者は禅的な発想で後者は密教やアドヴァイタ的発想ですが。。。
    上記の釈尊の答えは「世界が空なりと達観することによって死苦が滅却する」ということでしょうか?


    PS.非我や無我に関しては一旦は横におき、今回は空に絞った質問にさせてもらいました。
    よろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■31554 / inTopicNo.87)  雑感です
□投稿者/ 時 -(2023/07/05(Wed) 23:34:09)
    2023/07/06(Thu) 02:26:36 編集(投稿者)

    雑感です。

    長らく仏教等に触れてきた雑感として、、よくもまぁ、ある意味超難解な、ある意味超簡単な事柄を、当時の仏陀は説いていたのだなというのが今の感想です。

    記載のある教えを守らなければいけないとか、私はまだ四禅定や無色界定をなしてはいない等ではなく、心の汚れなく、常に心穏やかならばそれで良いという事だと思いました。つまりは、新たに付け足すべきことは何もないと思います。自らの心に目を向けその汚れに気が付いたなら、それを取り除くだけでしょう。

    恐らくは、当時も今も、インドでも日本でも、足ることを知らず、欲を貪り、怒り、自己を正当化し、日々大なり小なりの嘘をつく。。という人が多いのでしょう。

    足ることを知りつつ心穏やかに暮らす人には、本来の仏教は不必要だと思います。常に心穏やかな人は苦しんでいません。苦しみや悩みを感じていないのに、苦の滅尽の方法等を知る必要はありません。一応にでも心穏やかに暮らす人が、ある日、仏教って何?という興味でその穴を覗き込んで一歩目を踏み込んでしまった時から、見かけ上、複雑なそのメカニズムの読解という難解な作業が始まるような気がします。そしてもしもそのまま日常の自らの心の状態に気が付かないまま妄想し思考し続けると、インドや日本での伝承や逸話、何の真実性の担保を有さない作り話等のお話もあいまって、ますます迷妄な人生を歩むことになるのかもしれません。

    しかし仏陀も仏典の中でいうように、誰もそこに導くこともできないのですから、それぞれの人にそれぞれの学びがあればそれで良いと思いました。

    遠い昔、京都のお寺で拝観拒否として、拝観者を締め出すという騒ぎがあったり、日本のお寺の仏像が盗まれて外国で見つかった時のご住職のインタビュー報道で、怒り心頭ですだったかというものを見た記憶がありますが、、、何気に最近まで心に少し引っかかっていましたが、これらももうどうでも良いかな(笑)という心境です。

    パニチェさんへ。こんばんは。

    No31438

    > 中村元先生が訳されたスッタニパータの「空」についての一文と、原始佛典での非我あるいは無我関連でお聞きしたいことがありますので、

    もしかすると、1119の詩の事でしょうか?私の理解する、私の知る範囲でのお話しかできませんが、どのような事でしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■31549 / inTopicNo.88)  DNAの記憶
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/05(Wed) 21:39:05)
    獲得形質遺伝ではないか?という以下の引用をきっかけとして、ネオ・ダーウィニズトと3〜4年に及ぶ論争をした。
    懐かしいけど、今となってはよ〜やるわとも思ふ(笑)

    ************************************

    恐怖はなぜ起こるのだろう?どうしてコントロールが難しいのか?ある種の恐怖は、私たちの脳にしっかり刻みこまれている。進化の歴史を遠くさかのぼった昔、人類に危害をおよぼしていたものがかすかな記憶となって残っているのだ。人間の赤ん坊を入念に観察し、また動物を使って実験してみると、特定の刺激におびえることがわかる。その反応は、対象にはじめて遭遇した時に起こるとは限らない。だがはじめて接したときに、気をつけた方がいいと思わせる気配が少しでもあれば、恐怖が深く、しっかりと定着する。
           ・・〈中略〉・・
    五感を通して取り込まれた情報は、ひとまず視床で分類されてから、それぞれの処理領域に送られる。やぶでヘビを見たときのような感情的な刺激の場合、情報は二つに分けられて二系統で流れていく。どちらを通っても最終的には脳の警報装置であり、感情反応の発電装置である扁桃体に到達するのだが、二つの経路はかなり性質を異にする。第一経路は、脳の後部にある視覚野を通る。そこで情報が分析され、わかったことが発信される。この段階では、模様のある細長いものが、いまここでのたくっているという情報にすぎない。脳の認知領域が働きだしてようやく、そのくねくねするものが何か判断される。情報にヘビというラベルがついたことで、長期記憶に蓄積されているヘビ関連の知識が引っぱりだされる──動物で、いろんな種類があって、危険かもしれない?これらの要素がひとつになって、「ヘビだ。ほら、ここ。ぎゃーっ」といった感じのメッセージが作られる。メッセージを聞いた扁桃体が、身体を動かそうとする。
    第一経路は長く曲がりくねっていて、途中にいくつか停留所がある。差しせまった状況だと、これではまにあわない──もっとすばやく反応できるシステムが必要だが、それを受け持つのが第二経路である。視床と扁桃体は、もともと近い場所にあり、神経組織の束で結ばれている。また扁桃体は闘争や逃避反応とコントロールする視床下部ともうつながっている。これがルドゥーの言う「ぬかるみの近道」で、ここを通れば、情報は1000分の1秒単位の速さで、目から体に到達する。恐怖の条件づけは、情報がこの近道を通るときに起こるようだ。たいていの記憶は、大脳辺縁系のなかにある小さな、しかしとても重要な海馬によってコード化される。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と心の地形図)


    怖さを意識するときにも、知識の「使いまわし」が不可欠である。情動を生みだすのは、大脳辺縁系にあって脅威的な刺激に反応する扁桃だ。扁桃が活発になると信号が送られ、逃げる、あるいは戦うといった対応が準備される。だがあなたが実際に恐怖を感じるのはこの信号の「第二波」が前頭皮質に届いたあとである。扁桃は特定の対象に反応するような遺伝子配列になっていて、まるで構造自体のなかにその対象の表現を持っているようである。霊長類の場合は、もぞもぞはいまわる虫や、高い場所、それにある種の動物に恐怖を感じるようになっていて、「ヘビ+危険」という概念が生まれる前から組み込まれている。しかしその概念が「目覚める」ためには、第二の刺激にさらされなくてはならない。それはほとんどの場合、対象におびえているほかの誰かを見ることである。サルの赤ん坊が生まれてはじめてヘビを見ても、恐怖は覚えない。しかしヘビを見ておびえる母親の姿を見ると、赤ん坊はヘビを怖がるようになる。だがそれは、母親の反応が合図になったという単純なものではない。それを示す独創的な実験がある。花に恐怖を覚えるよう条件づけされた母親を、赤ん坊といっしょにゲージに入れる。そこに、花を入れると、母親はおびえて飛びあがる。しかし、赤ん坊はヘビの時とちがって、怖がるよりむしろ当惑するだけで、花に対する恐怖心は生じないのである。人間の恐怖にはいろいろあるが、鳥や虫、ヘビ、高所といった一般的なものは、誰もが避けたがる自然界の危険と密接に結びついている。だが恐怖症にならない人がほとんどなのは、本能的な知識を理解しておらず、意識的な恐怖がうかびあがってこないからだ。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と意識の地図形)

引用返信/返信 削除キー/
■31461 / inTopicNo.89)  Re[8]: 田秋さんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/07/02(Sun) 19:57:58)
    こんばんは、時さん

    お返事ありがとうございます。またお休み中、起こしてしまい申し訳ありませんでした。

    時さんにとって哲学とは「何故だろう?から始まり、そういう事か!で終わるもの」というものなのですね。「考えることは哲学である」という逆も成立しますか?

    真理、哲学、信仰について
    哲学か信仰かは、パニチェさんの同級生の話を、それは人に依ると解釈するのが穏当なのでしょうね。真理についてはよくわかりません。例えばユークリッド幾何学において「2点を結ぶ直線は1本あり1本しかない」というのは真理と言って良いのでしょうか?

    「思想」という言葉もあります。中国では老荘思想とか孔孟思想とか言いますがこれは哲学とは言えないのか?という疑問は持っています。孔子の教えなどは儒教と言って宗教と捉える人もいます。同じく老子を親分として道教とも言うのもあります。このあたり厳格に違いを設けることは特にボクのようなアマチュアには必要ないのかも知れません。
引用返信/返信 削除キー/
■31438 / inTopicNo.90)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/02(Sun) 14:08:09)
    こんにちは、時さん。レスありがとうございます。

    No31435に返信(時さんの記事)

    > 情報をありがとうございます。ここの所を正確に記しますと、長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典は一応全て読んでいますが、小部経典だけは有名どころしか読んでいませんので、小部経典13経「ジャータカ」は読んでいませんでした。という事は、仏陀が右脇から生まれたというお話も小部経典の中のまだ読んでない経典に記載があるのかもしれません。内容的に、長部、中部に仏陀の思想的な背景や梵行の意味、方法等の大半が記載されているようですので、あまり小部は重要視していなかったというのが、正直な所です。

    了解しました。

    > 本当に有意義な時間でした。今後もお話が噛み合うには至らないかも知れませんが、また機会がありましたら、これに懲りずに宜しくお願いします。

    私も有意義なレス交換ができて感謝です。
    懲りるなんてとんでもないです。^^

    今は少しお疲れとのことですので、またタイミングがよい時に中村元先生が訳されたスッタニパータの「空」についての一文と、原始佛典での非我あるいは無我関連でお聞きしたいことがありますので、こちらこそ今後ともよろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31436 / inTopicNo.91)  田秋さんへ
□投稿者/ 時 -(2023/07/02(Sun) 13:16:59)
    2023/07/02(Sun) 13:19:23 編集(投稿者)

    田秋さんへ。こんにちは。パニチェさんへのレスを書ていましたところ、田秋さんの投稿を拝見しました。

    No31414

    > 時さんにもお尋ねしたかったのですが「終了」ということなので、

    すみません、多少疲れていました(笑)私の場合には、東洋の思考形式?が頭の構造的にあっているようで、何を言っているのかが割と理解できるように感じています。

    東洋では西洋のような論理形式ではありませんで、その道理として理解を促す形態が割とあるように感じています。西洋では三段論法があると思いますが、東洋では五支論証法と言ったでしょうか?遠い昔に少し見ただけの記憶ですが、あったように思います。。

    五支論証法は、提案・理由・喩例・適用・結論の五つの支分から成立する論証法のようですが、、あまり細かく正確には理解していませんが、、^^

    (提案) 音は無常である
    (理由) 生起するものであるから
    (喩例) 生起するものであるトランペットの実体は無常である
    (適用) 同じく音も生起するものである
    (結論) ゆえに、生起するものであるから、音は無常である

    このような論法だったように思いいます。邪魔くさそうですね(笑)しかし本当にインド等でこのような五支論証法を学ぶのかというと、、、どうなのでしょうか。分かりません。細かく意識したことはありませんが、確かに仏典を読んでいますと、回りくどく、同じようなフレーズが続くのは常のようですね。理論武装というよりも、主張する内容の道理を導く一つの方法として用いられているのでしょうか。あまり意識したことがありませんので、よくわかりません。

    哲学についてですが、私は哲学を「何だろう?何故だろう?から始まり、そういう事か!で終わるもの」と単純に思っています。哲学とは知を愛することだとか、それを考えるのも哲学ですとかではなくてです。ですので私の身の回りで起こる事柄で「ん?なぜだろう?」という疑問が生じれば、その時点で私の人生哲学が無意識にでも始まり「なるほど、そういう事か!」と納得できればその哲学は終わります。それの繰り返しですかね。

    私は、仏教を信仰だとも哲学だとも感じておりませんで、誰の視点で見ているのかだと思っています。例えば、仏陀が実際に存在したものだとして、仏典の内容が本当だったとしたらという事で考えますと、仏陀の視点ではその内容は事実、真実という真理でしょう。しかし他の人からの視点でその教えを見聞きした場合、ん?仏陀はなぜこう言ったのか?何を説いているのか?を考察中には、その人にとっては仏教哲学(何故だろう?何だろう?)になり、彼は仏陀で彼が言うのだから信用するんだと思い込んでいる人には、それは信仰と呼べるのではないでしょうか。ここで真理、哲学、信仰の3つに分かれるように思いますが、、、どのように思われるでしょうか?

    仏陀自身も、有名な四門出遊のお話で、城から出て初めて病に苦しむ人や死にゆく人をみて、結果的に出家に至ったのだろうと思います。そして生とはなんだろう?死とは何だろう?これらの苦しみから解放される方法は?と考え続けたのではないでしょうか。もしもそうであれば、その当時、仏陀にとっての「何だろう?何故だろう?」ですので、私の分け方では哲学となり、それを経て悟りを開いた瞬間に、それは事実、真実、真理となったのだとも思えます。

    このような感じに思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■31435 / inTopicNo.92)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/07/02(Sun) 13:07:12)
    パニチェさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No31406

    > 先の投稿をもって一時、仏教関係の投稿を控えたいとのことでしたが私の方からは情報交換も含め何点かレスさせていただきます。
    > 昨日を一応の最終日と決めるとのことでしたので、このレスへのお返信はお気遣いなく。^^

    ご丁寧にありがとうございます。m(__)m 蛇足ながら、私の方からも少し書き足しておきたいと思います。

    > 私自身は時さんのように長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典、小部経典の全ての仏典を読んだわけではないので断言はできませんが、中村元先生によれはスジャータのエピソードは小部(クッダカ・ニーカヤ)の『ジャータカ序』に記されているとのことでした。

    情報をありがとうございます。ここの所を正確に記しますと、長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典は一応全て読んでいますが、小部経典だけは有名どころしか読んでいませんので、小部経典13経「ジャータカ」は読んでいませんでした。という事は、仏陀が右脇から生まれたというお話も小部経典の中のまだ読んでない経典に記載があるのかもしれません。内容的に、長部、中部に仏陀の思想的な背景や梵行の意味、方法等の大半が記載されているようですので、あまり小部は重要視していなかったというのが、正直な所です。

    本当に有意義な時間でした。今後もお話が噛み合うには至らないかも知れませんが、また機会がありましたら、これに懲りずに宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31427 / inTopicNo.93)  パニチェさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/07/02(Sun) 01:27:49)
    こんばんは、パニチェさん

    お返事ありがとうございます。

    >の同級生でヨガのインストラクターに言わせれば「ヴェーダーンタは哲学ではなく信仰だ」と譲りませんが(笑)
    同じものを見ても人によって感じ方が違う、というのはそれ自体が奥深いからだと思います。底が浅ければ見方も一通りしかなくなると思います。

    >秘かにこういうことに注目しているのはひょっとしたら自分だけではないか?と優越感に浸っていた時期がありました。
    そういう勘違い、ボクにも西遊記でありました。「この発見で論文が書けるんじゃないか!?」と思ったのが西遊記のイロハのイだった・・・

    古代中国では仏教と道教で論戦をするのですが、道教は全く勝てず、これではいけないと道教は一所懸命仏教の論法や体系を勉強したそうです。
引用返信/返信 削除キー/
■31422 / inTopicNo.94)  田秋さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/01(Sat) 22:12:26)
    こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。

    No31414に返信(田秋さんの記事)

    > 一方仏教はウィキペディアのインド哲学の項を見ると
    > 「インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。」
    > とあります。
    > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%B2%E5%AD%A6
    > 僧侶にとって仏教の哲学的思考というのは最初から自然に身についていたのかもしれません。

    もともと釈尊はバラモン教の教徒です。
    で、バラモン教はヴェーダ(古代インドの宗教文献)を元にしており、その主流派であったヴェーダーンタ学派はヴェーダーンタ哲学とも呼ばれています。
    古代インドから釈尊〜大乗仏教まで共通しているのは存在の本質にかかわるテーマであり、西洋哲学とも共通します。
    但し、私の同級生でヨガのインストラクターに言わせれば「ヴェーダーンタは哲学ではなく信仰だ」と譲りませんが(笑)

    > パニチェさんは仏教の教義やその展開に哲学的な物をけっこう感じますか?

    先にも投稿しましたが仏教は、存在論、認識論、実在論、観念論、一元論、独我論などを扱っていますし、哲学的な主題として、真理、本質、普遍性、言語、観念、行為、世界、空間、現象、人間一般、理性、自由、因果性、正義、善、意識、精神、自我などなどを扱っています。

    > もう一歩踏み込んで、ニーチェと仏教がお好きなのは、哲学的な部分で何か共通性(「考え」が似ている、或いは「考え方」が似ているなど)を感じるからですか?

    今となっては笑い話なんですけど、今から25年程前、私は仏教とニーチェの共通性(親和性)を見出し、秘かにこういうことに注目しているのはひょっとしたら自分だけではないか?と優越感に浸っていた時期がありました。

    ところがどっこい調べれば調べるほど、古くは昭和7年薗田香勲著『ニーチェと佛教』、私が道元禅師との共通性を発見したと思ってたら昭和46年に駒井義昭著『ニーチェと道元』、最近では平成10年に新田章著『ヨーロッパの仏陀』なる本まで出版されおりショックを受けました。

    今から考えれば、私なぞが考えることなんてとうに誰かが見出しているのが当たり前で「ほんま目出度いヤツやなぁ〜」と自嘲していました。

    若き日のニーチェに多大な影響を与えたショーペンハウアーが西洋の仏教徒と名乗っていたことや「盲目的な力」はシャンカラの「マーヤの覆い」が元となっていたこともあり、ニーチェの仏教に対するアフォリズムはキリスト教に対する批判とは異なり好意的かつ親近感を抱いていたようです。

    ちなみにニーチェが読んだと判明している仏教書は、ケッペン著「仏陀の宗教」、英訳本「スッタニパータ」、オルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」、ヴァッカーナーゲルの論文「バラモンの起源について」との事です。

    あと静養先のシルヴァプラナ湖畔を散策中に巨大な尖った三角岩のほとりで、突然ニーチェに襲来した「永劫回帰」の思想は、その体験談の告白を読むかぎり(仏教的な)見性にかすったような内容であり、正法眼蔵の画餅と共通性があります。

    ニーチェと仏教ならびに道元禅師との親和性は「Panietzsche Room > ニーチェU> 第11章 永劫回帰 2.永劫回帰と有時 & 3.ニーチェと道元や第13章ヨーロッパの龍樹」にまとめました。

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■31414 / inTopicNo.95)  パニチェさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/07/01(Sat) 18:22:20)
    2023/07/01(Sat) 18:26:02 編集(投稿者)

    こんにちは、パニチェさん

    仏教の哲学性についてパニチェさんのご意見をお聞かせ下さい。

    キリスト教はギリシア哲学と出会い、それを取り込み、教義の理論武装(整備?)には大いに役立ちました。

    一方仏教はウィキペディアのインド哲学の項を見ると
    「インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。」
    とあります。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%B2%E5%AD%A6

    僧侶にとって仏教の哲学的思考というのは最初から自然に身についていたのかもしれません。

    パニチェさんは仏教の教義やその展開に哲学的な物をけっこう感じますか?

    時さんにもお尋ねしたかったのですが「終了」ということなので、パニチェさんにお尋ねしてみました。

    もう一歩踏み込んで、ニーチェと仏教がお好きなのは、哲学的な部分で何か共通性(「考え」が似ている、或いは「考え方」が似ているなど)を感じるからですか?
引用返信/返信 削除キー/
■31406 / inTopicNo.96)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/01(Sat) 08:29:50)
    2023/07/01(Sat) 08:37:51 編集(投稿者)

    時さん、おはようございます。レスありがとうございます。
    先の投稿をもって一時、仏教関係の投稿を控えたいとのことでしたが私の方からは情報交換も含め何点かレスさせていただきます。
    昨日を一応の最終日と決めるとのことでしたので、このレスへのお返信はお気遣いなく。^^

    No31390に返信(時さんの記事)

    > 多分ですが、多くの訳文が出ているようですので、中村元氏が研究されたものと、私が参考にしているものの違いのように思いました。

    以下は(中途半端な私の投稿にすると著作権に抵触してしまう可能性もありますので)引用します。

    『原始仏教の聖典として現存しているものは、パーリ語の聖典と、これに相当する漢訳緒経典(阿含経など)および少数のサンスクリット聖典の断片とがある。釈尊自身はおそらく中インドのマガダ語の一種で説法したと考えられる。マガダというのは、今日のビハル州のあたりである。専門家のうちには、このあたりに行われていた言語を「古代東部インド語」と呼んでいる。それが幾多の変遷を受けて、パーリ語、ガンダーラ語、サンスクリット語などの諸言語で記されるようになったのである。(中村元著「仏教経典散策)よりの引用』

    中村元先生はサンスクリット語、パーリ語、チベット語をマスターしており、英語、ドイツ語、ギリシャ語、フランス語にも精通していたらしく、偉大な功績のひとつとしてパーリ語聖典やサンスクリット語聖典から和訳し、中国経由で日本に伝来しなかった原始仏典を紹介したことです。中村元先生による原始仏典の研究と和訳は(大乗)仏教伝来に寄与した玄奘三蔵が為した偉業に匹敵するほどのものだと私は思います。


    No31402に返信(時さんの記事)
    > 結論として、だから原始には矛盾はないのだとは、私は考えていません。何れにしましても遠い昔のお話ですので、実際に仏陀は本当に存在したのか?から疑おうと思えば、歴史の研究者ではない素人の私には疑えそうですが、その世界観に惹かれただけで、それはそれでOKではないでしょうか。パニチェさんは、原始も大乗も含めての良いとこどりで自己探求をされ、私は原始だけで人生の哲学を行えましたので、各人それぞれで良いと思いました。^^

    それぞれがそれぞれの機根に合った仏典(法門)を選び、それを人生哲学の指針とすればよいという時さんの結論には全く異論はなく同意します。
    ただ少し議論が噛み合ってないと思うところがあります。

    先に投稿した通り、パーリ語で書かれた聖典の成立には幾世紀にわったって逐次成立して拡大されており、古い層もあれば新しい層もあるとのことです。さらに先に引用したように中村元先生は現存するパーリ語の聖典とサンスクリット聖典の断片を元に研究されており、その研究成果としての選集からNo31386を返信しました。

    私自身は時さんのように長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典、小部経典の全ての仏典を読んだわけではないので断言はできませんが、中村元先生によれはスジャータのエピソードは小部(クッダカ・ニーカヤ)の『ジャータカ序』に記されているとのことでした。

    あと私が先に引用したのは大乗仏典と同じく原始仏典にも後の世の創作があるという投稿に対して、時さんの「原始で1つ2つでも創作されされたことが明らかにされた内容と、その仏典研究というものがいかなるものなのかを教えていただければ幸いです」とのレスに対して返信したものであって、原始仏典の矛盾に関する指摘のための引用ではありません。

    上記は念のための投稿です。
    私も有意義なレス交換となり感謝です。ありがとうございました。

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