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■31874 / inTopicNo.73)  多世界解釈に対する反論
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/23(Sun) 11:58:28)
    〈私〉という事実から導き出される「この世界が多世界解釈ではありえない」という帰結(反論)。

    これを主張しているのはパニチェだけではなく、「意識の難問(物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのか?)」を提起したデヴィット・チャーマーズも指摘していた。


    ***** 以下、D.チャーマーズ著『意識する心』からの引用 *****

    すなわち、どうして重なり合った脳の状態と結びつく心だけが、優先基底に即したその分野に対応するのか。なぜ、他の分解から生じる心がないのか、あるいは、それこそ重なり合った状態から生じる心がないのか。これは、ああいう規範的な分解を要するらしいエヴェレット本人のバージョンに対しては、理に適った反論である。(P.427)

    私自身という単一の感じがどうして、他のどこかでなくこのランダムに選ばれた分岐を伝播していくのか。私自身がたどっていくと私が感じるこの分岐を選び出すランダムな選択の根底には、どんな法則があるのか。なぜ私の私自身という感じは、分岐したときに他の道をたどってできた他の私がもつ感じには付随していないのか。(P.429)

    つまり、この領域にはいくつかの心があって、たまたまその一つが私なのだ、というのである。(P.431)

    私はなぜ他の誰でもなくこの人物ということになるのかという、指標性そのものの謎としっかり結びついた難しい問いである。(P.432)

    *************** 引用終わり ***************


    上記は〈私〉を理解していない人にとっては分かりにくい反論だと思う。

    タイムマシンで過去に遡り、自分が過去の自分を客観視するというシーンがある。
    有名なところでは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のほぼラストにあたるワンシーン(若きブラウン博士の協力を得、落雷を電力源として過去から現在に戻ってきた主人公のマーティが、映画の冒頭シーンにあたる改造車デロリアンに乗り込むもう一人のマーティを目撃するというシチュエーション)

    自分を客観視(客体視)している時点で、その対象は〈私〉ではなく他者の次元に成り下がっているということ。
    つまり「実際にこの〈私〉の眼から世界を見ている」という事実がない「もう一人の私」が同一時空に存在していることになり、それは〈私〉ではありえないだろ、というパラドックス。

    世界が分岐していたたら「実際にこの〈私〉の眼から多世界を見ている」ことになるが、実際に〈私〉は多世界を見ていないことから、多世界はありえないという主張。

    ある意味において上記のD.チャーマーズによる反論は「意識の難問」と「意識の超難問(なぜ私は他の誰かでもなく、この私なのか?)」との接点ではある。

引用返信/返信 削除キー/
■31765 / inTopicNo.74)  Re[21]: 非我と無我
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/14(Fri) 20:53:11)
    こんばんは、時さん。返信ありがとうございます。

    No31759に返信(時さんの記事)

    > 日本語訳で非我や無我と訳されているのは、パーリでのanattaやanattatoのようです。非我は、常住のアートマンは我ではないという意味で非我と訳され、それゆえに常住の我はどこにもないという意味で無我と訳されているイメージがありますね。しかしどちらの語源も同じanattaやanattatoからの訳のようです。

    なるほど。中村元先生も非我については上記のように説明されていました。

    > 当時を想像しますと、バラモン教が全盛時だったと思います。現代でいうヒンドゥー教になるのでしょうか。歴史的事実は調べてはいませんので、はっきりとは認識できていないのですが、我の本質は常住なるアートマンであり、このアートマンとブラフマンは同一であるとか、ここからこの世には神(ブラフマン)しか存在しないという論に至ったとかなんとか、この辺りも一応は学んだのですが、言葉的には忘れました。しかし一時は私も神に対しての完全なる帰依、バクティを知らず知らずの内に2年ほど実践していたという事は覚えていますので、一応は、この世には神しか存在していないというお話は体感として理解しています。そして私が仏教を学ぶ切っ掛けになりましたのが、このバクティの結果としての境地、不二一元のアドヴァイタといわれる境地、ブラフマンのみが存在するという境地、、、あるとき、そこにはまだ無知が存在するのですよと、その神の処には、まだほころびのある可能性があることをある方からご指摘頂いたからです。昔話にはなりますが、神への完全なる帰依で問題のないブラフマンのみの世界を垣間見て、一安心していたその処には無知が存在する?、、これは、どういう事だろう?という思い、、ここからが仏教の何だろう?何故だろう?の始まりでした。
    > この常住のアートマン(我)という思想の人々が、当時のバラモン教全盛時には、当然のことながら仏陀の周りには多くいたのでしょう。この常住なる我=アートマンを否定するために、仏陀は、論理的に非我(それは我に非ず)という事を説いていたものと思いますが。

    イエスがユダヤ教徒であったように、釈尊もバラモン教徒でした。
    キリスト教がユダヤ教の発展形(旧約による民族宗教から新約による全人類を対象とした新宗教へ)だったように、仏教もバラモン教の発展形(アーリア人による民族宗教から全人類を対象とした新宗教へ)だったのだと思います。

    > ですので、上記をお読みいただければ一応のご理解はいただけると思いますが、文法だ名詞だ形容詞だ、バガヴァッド・ギーターがどうの、歴史的事実だといった事は、学問的に学んではいないのですね。ですので上手く人に説明ができないものと思っています。当時は、宗教的儀式は全く抜きにした単純に神への帰依のみであり、次には単純に仏典を通読したというだけでの学問的ではない、個人的な理解と実践だけだったのです。今から思うと、相当単純な変わり者だと自身でも思います(笑)

    変わり者ではなく純粋な仏道だと思います。

    > というわけで、アートマンが我である等、常住論の否定の可能性から仏教に入りましたので、最初から我=アートマンの否定で非我という表現は、基本的に確認も何もなくすんなりと入っていけたと思っています。

    なるほど。

    > 実際は違うかもしれませんが、今までに持っているイメージでは、9対1くらいの比率で意味的には無我よりも非我が多いと感じます。語源が同じで、文脈による訳文の違いという意味でですが。ですので、一般に表現されている三法印や四法印の中の諸法無我という表現は、昔から何かしっくりと来ないイメージがあります。諸法非我ならば、しっくりときそうなのですが。

    中村元先生の見解も全く同じです。
    もともとは非我の説法であった。無我は後に付加された、と。

    > それと蛇足ですが、多分仏陀が「私」があるとかないとかと表現しなかったのは、あるといえば常住論に、ないといえば断滅論に、それを聞いた当時の人々が迷妄の道に陥るからだと思います。つまりは、そのこと自体が涅槃や解脱に役に立たず、中道を外すという判断があったからだと思います。

    同意です。
    ありがとうございました。
    また原始仏典で聞きたいことがあれば質問しますのでよろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31759 / inTopicNo.75)  Re[20]: 非我と無我
□投稿者/ 時 -(2023/07/14(Fri) 12:07:53)
    パニチェさんへ。こんにちは。ご返信をありがとうございます。

    No31748に返信(パニチェさんの記事)

    > あともう少し質問させて下さい。

    了解しました。

    > 中村元先生の説明によれば(鵜呑みしているわけではないのですが、私はパーリ語が分からないので中村元先生の説明を元に理解しています)原始仏典では「諸法無我(sabbe dhamma anatta)」の“anattan”という語は名詞にも形容詞にも用いられているとのことで、非我の意味でも無我の意味でも使用されているとのことでした。

    > そして後世の中観派においてはアートマンの意味を「それ自体」や「自性」と解釈するようになり、そこから無我(anatman nairatmya)と表現するようになったとのことでした。

    先生の研究によると、歴史的にはそういう事だったのですね。私自身もパーリ語は、日本語訳としての文脈がおかしいかな?と感じるところだけを確認するために調べる程度ですので、全く読めませんし書けません。

    > 時さんが読まれている原始仏典では(パーリ語でも英訳、和訳でも)非我と無我は言葉として違う語として表現されていますか?

    日本語訳で非我や無我と訳されているのは、パーリでのanattaやanattatoのようです。非我は、常住のアートマンは我ではないという意味で非我と訳され、それゆえに常住の我はどこにもないという意味で無我と訳されているイメージがありますね。しかしどちらの語源も同じanattaやanattatoからの訳のようです。

    当時を想像しますと、バラモン教が全盛時だったと思います。現代でいうヒンドゥー教になるのでしょうか。歴史的事実は調べてはいませんので、はっきりとは認識できていないのですが、我の本質は常住なるアートマンであり、このアートマンとブラフマンは同一であるとか、ここからこの世には神(ブラフマン)しか存在しないという論に至ったとかなんとか、この辺りも一応は学んだのですが、言葉的には忘れました。しかし一時は私も神に対しての完全なる帰依、バクティを知らず知らずの内に2年ほど実践していたという事は覚えていますので、一応は、この世には神しか存在していないというお話は体感として理解しています。そして私が仏教を学ぶ切っ掛けになりましたのが、このバクティの結果としての境地、不二一元のアドヴァイタといわれる境地、ブラフマンのみが存在するという境地、、、あるとき、そこにはまだ無知が存在するのですよと、その神の処には、まだほころびのある可能性があることをある方からご指摘頂いたからです。昔話にはなりますが、神への完全なる帰依で問題のないブラフマンのみの世界を垣間見て、一安心していたその処には無知が存在する?、、これは、どういう事だろう?という思い、、ここからが仏教の何だろう?何故だろう?の始まりでした。

    この常住のアートマン(我)という思想の人々が、当時のバラモン教全盛時には、当然のことながら仏陀の周りには多くいたのでしょう。この常住なる我=アートマンを否定するために、仏陀は、論理的に非我(それは我に非ず)という事を説いていたものと思いますが。

    ですので、上記をお読みいただければ一応のご理解はいただけると思いますが、文法だ名詞だ形容詞だ、バガヴァッド・ギーターがどうの、歴史的事実だといった事は、学問的に学んではいないのですね。ですので上手く人に説明ができないものと思っています。当時は、宗教的儀式は全く抜きにした単純に神への帰依のみであり、次には単純に仏典を通読したというだけでの学問的ではない、個人的な理解と実践だけだったのです。今から思うと、相当単純な変わり者だと自身でも思います(笑)

    というわけで、アートマンが我である等、常住論の否定の可能性から仏教に入りましたので、最初から我=アートマンの否定で非我という表現は、基本的に確認も何もなくすんなりと入っていけたと思っています。

    > 非我と無我が区別されていても、区別されていなくても、文脈も含めて意味合い的にはどちらの言葉(言葉の意味)が多用されているでしょうか?(非我と無我のどちらが説かれていることが多いでしょうか?)
    > 分かる範囲で教えていただければ有難いです。

    実際は違うかもしれませんが、今までに持っているイメージでは、9対1くらいの比率で意味的には無我よりも非我が多いと感じます。語源が同じで、文脈による訳文の違いという意味でですが。ですので、一般に表現されている三法印や四法印の中の諸法無我という表現は、昔から何かしっくりと来ないイメージがあります。諸法非我ならば、しっくりときそうなのですが。

    それと蛇足ですが、多分仏陀が「私」があるとかないとかと表現しなかったのは、あるといえば常住論に、ないといえば断滅論に、それを聞いた当時の人々が迷妄の道に陥るからだと思います。つまりは、そのこと自体が涅槃や解脱に役に立たず、中道を外すという判断があったからだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■31748 / inTopicNo.76)  非我と無我
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/13(Thu) 20:47:02)
    こんばんは、時さん。今回も丁寧な返信をありがとうございました。
    引用は一部ですが全て拝読しました。^^

    No31726に返信(時さんの記事)
    > 色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさい。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、(渇愛を捨棄して)離れなさい。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。

    No31738に返信(時さんの記事)
    > ・通常の我々は、「私」と「あなた」という二元の世界での認識等をしていますが、ここでいう「私」の状態が五取蘊の状態です。つまりは、私は将来〜になりたい等という思いがあると思いますが、ここに渇愛が潜んでいるという事です。そしてこの状態と同時に、色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさいよ。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、離れなさいよ。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。つまりは、五取蘊の状態から渇愛(五蘊に対する貪欲)や妄想が取り除かれた状態が無我の状態だと理解しています。

    ありがとうございます。時さんが非我と無我をどのように理解されているかよく分かりました。
    あともう少し質問させて下さい。

    中村元先生の説明によれば(鵜呑みしているわけではないのですが、私はパーリ語が分からないので中村元先生の説明を元に理解しています)原始仏典では「諸法無我(sabbe dhamma anatta)」の“anattan”という語は名詞にも形容詞にも用いられているとのことで、非我の意味でも無我の意味でも使用されているとのことでした。

    そして後世の中観派においてはアートマンの意味を「それ自体」や「自性」と解釈するようになり、そこから無我(anatman nairatmya)と表現するようになったとのことでした。

    時さんが読まれている原始仏典では(パーリ語でも英訳、和訳でも)非我と無我は言葉として違う語として表現されていますか?

    非我と無我が区別されていても、区別されていなくても、文脈も含めて意味合い的にはどちらの言葉(言葉の意味)が多用されているでしょうか?(非我と無我のどちらが説かれていることが多いでしょうか?)
    分かる範囲で教えていただければ有難いです。

    > 暑い日が続きますね。お体を大切になさってください。

    ありがとうございます。いよいよ夏本番ですね。
    今年は南米の太平洋岸沖合〜東中部太平洋にエルニーニョが発生しているにもかかわらず、本来は海水温が下がるはずの東南アジアにラニーニャ現象の影響がまだ残っているため、両方の海域でともに海水温が高いままになっているそうで観測史上初の現象とのことです。何か起こるかも予想できないとのことでした。
    時さんもお体を大切になさって下さい。

引用返信/返信 削除キー/
■31738 / inTopicNo.77)  非我と無我の個人的な理解
□投稿者/ 時 -(2023/07/13(Thu) 00:08:22)
    自己レスです。
    No31726に返信(時さんの記事)
    > No31616
    >>また機会があれば非我と無我についての時さんの見解を教えて下さい。

    非我は、我に非ず。無我は、我は無い。説明となると難しいですね。もう一度挑戦です。

    ・苦とは一言で表現すると五取蘊です。
    ・五蘊は、過去であれ将来であれ、粗かろうがが細かかろうが(色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊)の事です。
    ・五取蘊は、五蘊とそれに対する貪欲(渇愛)が取ですので、合わせて五取蘊です。これは、〜の色あるものになりたいとか、〜の感受あるものになりたい等の渇愛がある状態で、私は存在する、この私が存在する、私は存在することになろう、私は存在しないことになろう等というのは、全て妄想ですと説かれます。

    ・通常の我々は、「私」と「あなた」という二元の世界での認識等をしていますが、ここでいう「私」の状態が五取蘊の状態です。つまりは、私は将来〜になりたい等という思いがあると思いますが、ここに渇愛が潜んでいるという事です。そしてこの状態と同時に、色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさいよ。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、離れなさいよ。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。つまりは、五取蘊の状態から渇愛(五蘊に対する貪欲)や妄想が取り除かれた状態が無我の状態だと理解しています。

    ・通常の我の状態とは、五取蘊の状態を指し、無我の状態とは、五蘊の状態の事を指しています。そして五取蘊の状態の時に、「それは、我のものに非ず、我に非ず」等(非我)という教えの理解によりその状態から離れることができれば、無我の状態になると思います。

    例えば、甲子園出場にかけるこの熱い思い(想)は私のものです。という場合の思い(想)は、あなたのものではありませんから、離れなさいよ。という事です。

    では、仮に五取蘊の状態から五蘊に戻ったとして、その人物が「我は無我だ」「私は五蘊だ」というのは、矛盾を引き起こしていますので、そのような表現はしません。といいますか、できません。ですので、通常表だっては区別がつきにくいと思いますが、会話の際には、通常使われる表現の「私・我」という一人称単数の私を用いての会話となりますが、一元の境地以上の人々が表現する私(無我)の状態というのは、単に二元の世界の人々が表現する通常の私(五取蘊)の状態ではなくて、同じ次元での表現ではありません。

    ですので、実際には、仏陀と弟子の会話、弟子同士の会話、弟子と異教徒との会話、全てで「私は〜」という見かけ上の一人称単数の私を用いての会話がなされていますが、特に仏陀や高位の弟子達の使う「私」には渇愛や妄想等が存在していません。ですので、この場合には無我(五蘊)の境地での「私」になり、通常の弟子たちや異教徒の使う「私」は、五取蘊(苦)の状態だと理解しています。
引用返信/返信 削除キー/
■31726 / inTopicNo.78)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/07/12(Wed) 04:34:12)
    パニチェさんへ。おはようございます。レスが遅くなり申し訳ありません。

    No31616

    > また機会があれば非我と無我についての時さんの見解を教えて下さい。

    苦とは、一言で表現しますと、五取蘊苦の事です。
    五蘊とは、過去であれ未来であれ、粗かろうが細かかろうが(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の事です。

    五取蘊とは、(色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の事で、〜の色あるものとなりたい。〜の感受あるものになりたい。〜の想あるあるものになりたい。〜の諸行あるものになりたい。〜の識あるものになりたい。という、五蘊に対する貪欲(渇愛)が取という事で、合わせて五取蘊です。五取蘊は、〜になりたいという渇愛が原因ですので、五蘊非我の教えで五蘊に戻りますが、五取蘊のままですと、ここに苦が生起し続けます。

    通常の我々は、「私」と「あなた」という二元の世界での認識等をしていますが、ここでいう「私」の状態が五取蘊の状態です。つまりは、私は将来〜になりたい等という思いがあると思いますが、ここに渇愛が潜んでいるという事です。

    色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさい。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、(渇愛を捨棄して)離れなさい。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。

    つまりは、我とは、五取蘊を指し、無我とは五蘊の事を指しています。

    では、仮に五取蘊の状態から五蘊に戻ったとして、その人物が「我は無我だ」「私は五蘊だ」というのはおかしな表現ですね。ですので、通常表だっては表現されません。そして、会話の際には、通常使われる表現の「私・我」という一人称単数の私を用いての会話となりますが、単純に二元の世界の人々が表現する私(五取蘊)とは違います。

    ですが、実際には、仏陀との会話、弟子同士の会話、弟子と異教徒との会話、全てで「私は〜」という一人称単数の私を用いての会話がなされていますが、特に仏陀や高位の弟子達の使う「私」には渇愛が存在していません。ですので、この場合には無我の境地での「私」になり、通常の弟子たちや異教徒の使う「私」は、五取蘊の状態だと理解しています。

    非我や無我のお話は、この辺りでいかがでしょうか。

    暑い日が続きますね。お体を大切になさってください。
引用返信/返信 削除キー/
■31631 / inTopicNo.79)  Re[16]: 真言密教
□投稿者/ 時 -(2023/07/08(Sat) 13:54:45)
    パニチェさん、こんにちは。レスをありがとうございます。

    No31625に返信(パニチェさんの記事)

    > 私も全ての大乗仏典を知ってるわけでありませんので断言はできませんが、上記以外の密教経典としては空海が最澄に頼まれても貸し出さなかった有名な「理趣経(りしゅきょう)」があり、「大日経」「金剛頂経」と並ぶ密教経典です。
    > あと多くのダーラニーを含む「金光明経(こんこうみょうきょう)」などがあるようです。

    情報をありがとうございます。空海が最澄に頼まれても貸し出さなかった経典があるというのは、うっすらとですが知っていましたが、理趣経というのですね。内容は全く知りませんが。

    > 7世紀以後にインドで起こった新しいかたちの仏教が密教と名乗ったそうです。以下引用します。

    お手数をおかけして、申し訳ありませんでした。当時の教えにはなかったはずの梵我一如等の思想がどのような歴史的背景により仏教に取り入れられていったのか、一応の理解ができました。ありがとうございました。m(__)m

    > ヒンドゥー教の神々を護法神(天部)や明王として仏教に取り込んでいるのも上記の流れだと思います。
    > インドで仏教よりもヒンドゥー教が優位になった理由としては、やはりカースト制度を支える思想的背景があったからだと思います。ご存じのように釈尊はスッタニパータで「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる」と説法していますし、仏弟子には世俗での階級や身分に関係なく平等に接し、自らは王族の身分を捨てていたことから、ある意味ではアンチカーストです。

    そうですね。アンチカーストでしょう。(笑)

    バラモン教から仏教やジャイナ教からのヒンドゥー教のバクティーですか。。しのぎの削りあいのような構図が浮かびました。

    > 入唐した空海は32歳のときに中国密教第一の高僧恵果(けいか)を師と仰ぎ三か月後に奥義を極めたと認めら認められ灌頂を受けたそうです。
    > 入唐以前にも学問として道教や神仙思想を学んでおり、修験道のように山野を遍歴していたとのことです。

    こちらはこちらで、、、新たな仏教思想が始まったという事でしょう。

    大変勉強になりました。ご返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■31625 / inTopicNo.80)  真言密教
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/08(Sat) 12:49:14)
    2023/07/08(Sat) 13:56:54 編集(投稿者)

    時さん、レスをありがとうございます。

    No31623に返信(時さんの記事)
    > 大乗仏教は、ほぼ知らないといってよいレベルなのですが、単純に、上記の現代日本の真言宗の僧侶は、何を基準として学ばれているのでしょうか?具体的な仏典軍の呼称とその仏典名を教えていただけますか?大量にあるのであれば、ざっとでもかまいません。
    > 一応ネットで調べてみますと、その真偽は別として、真言宗の経典一覧として、、
    > 「大日経(だいにちきょう)」
    > 「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」
    > 「蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)」
    > 「瑜祇経(ゆぎきょう)」
    > 「要略念珠経(ようりゃくねんじゅきょう)」

    私も全ての大乗仏典を知ってるわけでありませんので断言はできませんが、上記以外の密教経典としては空海が最澄に頼まれても貸し出さなかった有名な「理趣経(りしゅきょう)」があり、「大日経」「金剛頂経」と並ぶ密教の根本経典です。
    あと多くのダーラニーを含む「金光明経(こんこうみょうきょう)」などがあるようです。

    > といいますのも、その当時のインドで、梵我一如や不二一元といった東洋哲学的な思想があったのは一応大筋では理解しているのですが、当時の仏陀を中心とした教えの中には無かったはずの梵我一如という思想が、なぜ、現代の真言宗という大乗仏教の一つの宗派に色濃く残すようになったのかを知れるものなら知りたいのです。

    7世紀以後にインドで起こった新しいかたちの仏教が密教と名乗ったそうです。以下引用します。

    『仏教が栄えていたころの仏教教団は、王族貴族の支持や後援もありましたが、また富俗な商人の帰依にまつことがひじょうに多かったのです。したがって商業資本が衰えると、仏教教団の基盤も弱くなりました。反対に、農村で民衆のあいだにずっと根を下ろしていた草の根の宗教であるバラモン教ないしヒンドゥー教は少しも衰えず、むしろ仏教の衰退とともに優勢になっていきました。国王たちも、農村に住むバラモンたちの意見や要求に従わざるをえなくなっていきます。そこで仏教も、バラモン教ないしヒンドゥー教と妥協せざるをえなくなり、民間信仰をもとり入れた新しい仏教のかたちである密教を成立させたのです。・・中略・・・このような混淆はやがて仏教の堕落をひきおこし、また仏教はヒンドゥー教のうちに没入してしまうかたむきがありました。やがてミーマーンサー学派のクマーリラ(600─650年ころ)やヴェーダーンタ学派のシャンカラ(700─750年ころ)が出現して、仏教思想を激しく論難し、シヴァ教の行者たちも仏教教団を攻撃しました。このようになって仏教は何らかの対策をとらなければなくなり、すでに以前からみられる傾向ではありましたが、とくに7世紀以後には、ヒンドゥー教のうちの一つの流派であるタントラ教(タントリズム)と呼ばれる密教の教義体系を仏教もとり入れ、そこで独自の特徴をもった宗教体系が成立しました。これが真言密教と呼ばれているものです。(東京書籍刊現代語訳大乗仏典6『密教経典・他』よりの引用)』

    ヒンドゥー教の神々を護法神(天部)や明王として仏教に取り込んでいるのも上記の流れだと思います。
    インドで仏教よりもヒンドゥー教が優位になった理由としては、やはりカースト制度を支える思想的背景があったからだと思います。ご存じのように釈尊はスッタニパータで「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる」と説法していますし、仏弟子には世俗での階級や身分に関係なく平等に接し、自らは王族の身分を捨てていたことから、ある意味ではアンチカーストです。

    入唐した空海は32歳のときに中国密教第一の高僧恵果(けいか)を師と仰ぎ三か月後に奥義を極めたと認められ灌頂を受けたそうです。
    入唐以前にも学問として道教や神仙思想を学んでおり、修験道のように山野を遍歴していたとのことです。
引用返信/返信 削除キー/
■31623 / inTopicNo.81)  Re[14]: 我空法空
□投稿者/ 時 -(2023/07/08(Sat) 10:46:04)
    パニチェさんへ。おはようございます。レスをありがとうございます。

    少し前の内容になるのですが、、

    No31594

    > そうです。入我我入や三密など、密教(真言宗)はヴェーダーンタ学派の梵我一如を色濃く残しています。

    大乗仏教は、ほぼ知らないといってよいレベルなのですが、単純に、上記の現代日本の真言宗の僧侶は、何を基準として学ばれているのでしょうか?具体的な仏典軍の呼称とその仏典名を教えていただけますか?大量にあるのであれば、ざっとでもかまいません。

    これは、例えば私の場合ですと、この内容の記載のあるのはパーリ経典と言われる一塊の仏典軍で、この中の 長部経典 大篇 第21経「帝釈天門経」を日本語訳にしたものです。といった感じです。

    といいますのも、その当時のインドで、梵我一如や不二一元といった東洋哲学的な思想があったのは一応大筋では理解しているのですが、当時の仏陀を中心とした教えの中には無かったはずの梵我一如という思想が、なぜ、現代の真言宗という大乗仏教の一つの宗派に色濃く残すようになったのかを知れるものなら知りたいのです。

    一応ネットで調べてみますと、その真偽は別として、真言宗の経典一覧として、、

    「大日経(だいにちきょう)」
    「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」
    「蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)」
    「瑜祇経(ゆぎきょう)」
    「要略念珠経(ようりゃくねんじゅきょう)」

    というものが出ては来るのですが、これらを一塊とした大元の仏典軍の呼称も、私には分からないのですね。

    ご存じでしたら、教えていただければ幸いです。宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31616 / inTopicNo.82)  我空法空
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/08(Sat) 08:00:03)
    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。

    No31605に返信(時さんの記事)

    >>なるほど。これ「思考が苦を生む」ということも含まれているのなら、ジッドゥ・クリシュナムルティをはじめとした現代の覚者による金言の先駆けです。
    > はい。原始では思考の事を、尋や伺と表現しているようですが、四禅定の初禅では、逆にその尋伺を伴いながら欲と不善の諸法から遠離します。

    内観や内省ですね。

    >>中論は何冊か読みました。めちゃめちゃ難解です。言い換えれば無数の読解があるかもしれません。
    >>中村元先生の読解と西嶋和夫老師の解説書から理解したのは二義的な空です。
    >>単体では無自性であるということ。また全てが連関する全体運動たる実相(相依性縁起)も空性と同義ということです。
    > 中論での一番大切な核は、今も「戯論の寂滅」だと思っています。

    同意です。
    ちなみに中観派にとっての寂滅すべき戯論というのは、説一切有部の我空法有で、中観派は我空法空です。

    >>なるほど。得心しました。死王は見ることはないというのは解脱のことでしたか。ここを私は読み違えていたために違和感があったのでしょうね。
    > 私はパニチェさんが、もしかすると龍樹の空の捉え方でスッタニパータの空(1119)を読まれているのかな?と感じておりましたが、得心されたのであれば、よかったです。^^

    最近よく使われている悪い意味での忖度(相手の顔色を伺う:本来はこのような意味はないとのことですが、言葉の意味は使われ方によって変化するということを支持しているので適当な表現も見当たらないので用います)も含めた綺語(十悪の一つ)になってはいけませんので、念のために返信しておきます。

    龍樹菩薩の空と原始仏典の空は同義であることは確認できましたし、龍樹菩薩の空と捉えても先の釈尊の説法とは何ら矛盾していませんでした。
    中観派は「法空」ですから「世界を空なりと観ぜよ」の説法と合致します。
    「死王は見ることはない」を「死苦の寂滅」と読解したための違和感でした。

    > 原始の中では、仏陀が略式の法をさらっと説いて引っ込むという事が割とあるようです。今回の場合には、死王は見ることはないという一文で、本当に意味合いとしての解脱や輪廻を含めて説かれていたのか否か?今となっては、その本当の答えは見つかりそうにはありませんが。。

    これを探究するのも仏道、見性悟道だと思います。^^
    また機会があれば非我と無我についての時さんの見解を教えて下さい。

引用返信/返信 削除キー/
■31605 / inTopicNo.83)  Re[12]: 原始仏典の「空」について
□投稿者/ 時 -(2023/07/08(Sat) 01:55:48)
    パニチェさん、こんばんは。レスをありがとうございます。

    No31594に返信(パニチェさんの記事)

    > ありがとうございます。私も感じたところを思うがままに書いてみますので時さんの興味のないところはスルーしていただいても結構です。

    ありがとうございます。了解しました。^^

    > なるほど。これ「思考が苦を生む」ということも含まれているのなら、ジッドゥ・クリシュナムルティをはじめとした現代の覚者による金言の先駆けです。

    はい。原始では思考の事を、尋や伺と表現しているようですが、四禅定の初禅では、逆にその尋伺を伴いながら欲と不善の諸法から遠離します。

    > 中論は何冊か読みました。めちゃめちゃ難解です。言い換えれば無数の読解があるかもしれません。
    > 中村元先生の読解と西嶋和夫老師の解説書から理解したのは二義的な空です。
    > 単体では無自性であるということ。また全てが連関する全体運動たる実相(相依性縁起)も空性と同義ということです。

    中論での一番大切な核は、今も「戯論の寂滅」だと思っています。

    > なるほど。得心しました。死王は見ることはないというのは解脱のことでしたか。ここを私は読み違えていたために違和感があったのでしょうね。

    私はパニチェさんが、もしかすると龍樹の空の捉え方でスッタニパータの空(1119)を読まれているのかな?と感じておりましたが、得心されたのであれば、よかったです。^^

    原始の中では、仏陀が略式の法をさらっと説いて引っ込むという事が割とあるようです。今回の場合には、死王は見ることはないという一文で、本当に意味合いとしての解脱や輪廻を含めて説かれていたのか否か?今となっては、その本当の答えは見つかりそうにはありませんが。。
引用返信/返信 削除キー/
■31594 / inTopicNo.84)  Re[11]: 原始仏典の「空」について
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/07(Fri) 21:26:32)
    2023/07/07(Fri) 22:08:37 編集(投稿者)

    時さん、こんばんは。丁寧なレスをありがとうございます。

    No31578に返信(時さんの記事)

    > はい。議論は、私はあまり好まないのですね。お話合い程度という認識ならば了解しました。

    ありがとうございます。私も感じたところを思うがままに書いてみますので時さんの興味のないところはスルーしていただいても結構です。

    > 世間と世界は同じlokoやlokamという単語の訳のようですので、文脈によって訳者が使い分けているのでしょうか。

    そのようですね。世界に比べて世間というのは何か俗っぽい印象があります。

    > 原始では、見解があると苦から解放されないと説かれます。理由は、そこに固執があるからだという事のようです。ですので、議論はしないとも説かれています。

    なるほど。これ「思考が苦を生む」ということも含まれているのなら、ジッドゥ・クリシュナムルティをはじめとした現代の覚者による金言の先駆けです。
    例えば三毒(貧欲・瞋恚・愚癡)にせよ、ぐあっと立ち上がることがあっても手を付けなければサラリと流れます。
    こねくり回せば回すだけ三毒(貧欲・瞋恚・愚癡)は増幅してきますからね。
    覚者と言っても無感情ではありえない。凡夫と違うところは全く後を引かずサラリと流れるところだそうです。

    > パニチェさんが認識されている「空」は、恐らく龍樹の無自性空の空だと思いますが、違っているでしょうか?もしもそうであるならば、仏陀の没後に龍樹が説いたのが、無自性の空ですが。。違ってれば申し訳ないですが。

    中論は何冊か読みました。めちゃめちゃ難解です。言い換えれば無数の読解があるかもしれません。
    中村元先生の読解と西嶋和夫老師の解説書から理解したのは二義的な空です。
    単体では無自性であるということ。また全てが連関する全体運動たる実相(相依性縁起)も空性と同義ということです。

    > 死王は見ることがないというのは、多分、輪廻転生しない事と同義だと思います。ですので、死王が見れば、捕まって輪廻転生するという事だと思いました。
    > ・自我に固執する見解をうち破って・・自我に固執するというのは有身の状態です。それに固執する見解を持っていると有身見という事で、滅尽すべきものを有しているという意味で好ましくありません。でもここでは、これを打ち破ってですので、有身見の滅尽を目標にするという事で、梵行にはかなっていますね。

    なるほど。得心しました。死王は見ることはないというのは解脱のことでしたか。ここを私は読み違えていたために違和感があったのでしょうね。

    > ・世界を空なりと観ぜよ。・・下のレスの >2.調べたところパーリ仏典経蔵中部の・・の所の返信内容にも書きましたので、ご確認いただきたいのですが。
    > 「世間・世界」を空(からっぽ)と観ぜよ。という事は、空(からっぽ)ならざるものが空(からっぽ)ならざるものとして存在しているという事になりますね。それが「空性(からっぽ)ならざる出世間」という解釈ができそうですが。

    なるほど。「空(からっぽ)ならざるものが空(からっぽ)ならざるものとして存在している」の発展形が大乗の一実相印の諸法実相かもしれません。

    > スッタニパータの一文の辻褄を、過去にこれだけ考えたことは在りませんでした。

    丁寧な返信をありがとうございます。

    >>1.上記の「空」はパーリ語では 「スンニャ」 (sunna)となっているのでしょうか?大乗仏教の根本思想である「空」と同じ原語ですか?

    > 原始を調べましたところ、sunnatoでした。意味は、空無の、空なる、空のようです。他の経典では、sunnaも使われているようです。
    > 大乗仏教の空といいますと、龍樹の中論の空のことですね?無自性空や八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の空の事ですね?この語源は、私にはわかりません。
    > しかし恐らくですが、大乗の空は、無自性空(くう)で原始の空は空(からっぽ=何もない)という意味に理解していますが、発音的にはどちらも「くう」ですね。

    sunnaであれば、やはり大乗の空と同じです。

    >>2.調べたところパーリ仏典経蔵中部の『小空性経』や『大空性経』でも空が説かれているとのことでしたがやはり世界が空であることが説かれているのでしょうか?
    > 原始の中での空という漢字は、空(からっぽ)の意味で使われている様ですね。小空経の場合は、世界がというよりも、瞑想中の事象として、例えば、林の中で独り瞑想しているときに「人、林、地」について、「今、人想については空である」と了知し、「今、林の想についても空である」と了知し、「しかしこれだけは空性ならざるものとして存在している。すなわち、この地想に関する単一性が」と言った具合です。

    > この場合には、「人、林、地」の3つの対象について、今は「地」のみに焦点を当てているために、他(人、林)は、空(からっぽ)で、そこに唯一存在している(単一性の)ものが「空性(からっぽ)ならざる地想」です。という事だと理解しています。

    > そしてその空(からっぽ)の使われ方ですが、「そこに存在しないものを空とみなし、そこにまだ残存しているものを、これは存在しているとみなす」という。空と存在のあり方のようですね。

    > ですので、上記の次に空無辺処という処に移行した瞑想の場合には、「人、林、地、空無辺処」の4つの対象について、「空無辺処」のみに焦点を当てているために、他(人、林、地)は、空(からっぽ)で、そこに唯一存在している(単一性の)ものが「空性(からっぽ)ならざる空無辺処」です。となるようです。

    > その理由は、例えば「人、林、地、空無辺処」という順番の場合には、「人」から「空無辺処」に移行するにしたがって、煩わしさが少なくなっていくという事で、「林の想」に焦点を当てた場合には、今まであった「人の想」の煩わしさは、ここ(林の想)ではなくなっているという事で、「この人想についての想類(煩わしさ)は、林想について空(からっぽ)である」と表現されているようです。

    なるほど。

    >>またこれ以外にも原始仏典で空は説かれているのでしょうか?もし説かれているとすればどのような内容でしょうか?

    > 原始で空という表現があった場合には、空(からっぽ、空無)という意味で解釈されれば、うまく行くように思います。原始で空が特に説かれているのは、、これら以外には、特に記憶にありません。

    ありがとうございます。

    >>3.私は、自己を空なりと達観することによって「私の苦しみ」つまり「苦しむ私(主体)」が空であるから自ずと「私の苦しみ」が滅却する、あるいは「苦しむ無常なる私(主体)」は実相(あるがまま)である世界と合一する存在であるが故に「無常なる私」は「私の苦」とともに消え失せると理解しています。前者は禅的な発想で後者は密教やアドヴァイタ的発想ですが。。。
    >>上記の釈尊の答えは「世界が空なりと達観することによって死苦が滅却する」ということでしょうか?

    > 上記は、大乗の思想と梵我一如の思想でしょうか。詳しくは忘れましたが。

    そうです。入我我入や三密など、密教(真言宗)はヴェーダーンタ学派の梵我一如を色濃く残しています。

    > ですので「世界が空なりと達観することによって死苦が滅却する」ということではありません。

    分かりました。

    > 解脱→自由の境地→死の縛りの滅尽→次生の原因の滅尽→輪廻の終焉。という図式になるでしょうか。
    > アドヴァイタも過去に少し読みましたが、忘れてしまっています。パニチェさんが仰っているのは、多分、龍樹の空の境地の事ですね?もしもそうであるならば、仏陀の説いた瞑想の境地である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)というもので表現しますと、非想非非想処だと私は理解しています。
    > つまり、不苦不楽の境地であり、この世では最も高い境地(有頂天)ですね。しかしもしもここであるならば、仏陀曰くのまだ有身、有漏なのですね。つまりは、まだ此岸で彼岸に達していないとなります。

    大乗にも有余涅槃と無余涅槃、さらに無住処涅槃があります。

    > 少し分析してみます。四句分別( @Aである。A非Aである。BAであり、非Aである。CAでなく、非Aでもない。)という概念があるのはご存じかもしれません。
    > @とAは通常の二元での境地です。Bは、在ると無いの同時存在の境地で、不二一元の境地です。そしてここからが一元の境地です。Cは、在ると無いの同時非存在の境地で、不一不二の境地です。
    > 仏陀の説いた「非想非非想処」は、四句分別のC(Aでなく、非Aでもない)に当たります。
    > Aに「想」を代入してCに当てはめますと、非想(Aでなく)非非想(非Aでもない)という事で、合わせて、「非想非非想処」です。

    はい。

    > 龍樹の空(八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去))を分析しますと、
    > ・不生不滅→不を非に便宜上変換します→非生非滅
    > ・次に「生」と同じ地平で「滅」を変換すると、滅は「非生」になります。
    > Aに「生」を代入してCに当てはめますと、非生(Aでなく)非非生(非Aでもない)という事で、合わせて「非生非非生」で「非想非非想」と同じ構造です。
    > 最初に戻して、現在の「非」を「不」に変換しなおしますと「非生非非生」→「不生不不生」で、最後の2文字「〇〇〇不生」は「滅」を「生」と同じ地平で変換したものですので、これを「滅」に戻しますと、「不生不不生」→「不生不滅」となりますね。
    > 後の、(不常不断・不一不異・不来不去)も同じ構造で、仏陀の表現した悲想非非想の境地という事が言えると思います。言語化できる最高の境地である、悲想非非想が後世の龍樹が説いた空の境地だと私は思っています。

    なるほど。そういう解釈もあると思います。一方で龍樹菩薩は中論で言語の限界にも言及しています(中論全体が帰謬法を用いて言語にできないことを行間でもって指し示しているとも言えます)。
    中論や大乗起信論、正法眼蔵などの論書を読んでいると著者は悟りを体得している(底が抜けている)ことは(底が抜けていない)私のような者でも分かります。

    おそらく釈尊が体得した仏智というのは見性体験でもってシンクロするところが多々あるのだと思います。
    さらに般若心経と金剛般若経を合わせて読むと六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)や八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)は先に述べたあるがままの実相たる全体運動(相依性縁起)つまり法(金剛般若経では如来、あるいは真諦)の特長をあらわしているという解釈も可能です。

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