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■32399 / inTopicNo.61)  ラプラスの悪魔jr
  
□投稿者/ 時 -(2023/08/11(Fri) 01:32:21)
    2023/08/11(Fri) 02:57:47 編集(投稿者)

    興味深い仮説を見つけました。バートランド・ラッセルという人が提唱した、世界五分前仮説と言うのだそうです。世界五分前仮説とは「世界がたった5分前に始まった」という仮説を考える思考実験のようです。

    この世界のあらゆる事柄(ピサの斜塔、本能寺の変、今食べているカレーライス、過去の思いでや記憶、何かの記念写真、アンモナイトの化石等々)が、現時点の五分前に神により作られたとしたら・・これを論理的に否定することはできないという内容のようです。例えば、五分以上前の記憶はあるのでそれはおかしいというものも、その五分以上前の記憶も五分前に作られているという仮定ですので、論破できませんね。

    この思考実験の目的は、現在と過去の関係性において、異なる時間に生じた出来事の間には、いかなる論理的必然的な結びつきもないという事を言いたかったようです。つまりは、因果関係に何らその必然性がないとする考え方のようです。風が吹いて木が揺れる。木が揺れて木の実が落ちる。それを見て万有引力の法則の発見には繋がらないという事でしょう。全てが五分前に神により作られたらとするようです。その記憶もそっくりそのまま五分前に作られた。。。としたら。

    そんな馬鹿なと思われるでしょうが、そう言われてみると、これは否定しようがないでしょう。

    もしもこの思考実験において、五分前の神の登場やその力を許すのであれば、五分後の神の登場も許されるでしょう。ここで便宜上、五分前の神の弟である未来を司る五分後の神を「ラプラスの悪魔jr」と名づけましょう。

    今の瞬間から五分後に起こること全ての未来の姿がすでに作られており、それを我々が現在の認識として追体験している。その追体験記憶だとしたら・・・今認識している記憶や出来事は、五分後の神(ラプラスの悪魔jr)により五分後にすでに創造されていたもので、人はそれを今現在の認識として生活しているとすると、勿論、現在この世界五分前仮設の思考実験を考察している瞬間も、ラプラスの悪魔jrにより創造された世界を現時点で追体験しているという事になりますね。・・・

    これは、五分前の神による記憶の創造と同じく、五分後の神の創造した世界が現在の我々の体験している思いや経験等の認識となりますので、これもまた、現在と未来の関係性において、異なる時間に生じた出来事の間には、いかなる論理的必然的な結びつきもないという事を言いたいとしましょう。

    全てがラプラスの悪魔jrにより作られた確定のものだとするのならば、という事で、今あるその記憶も想像もそっくりそのまま五分後に作られる事が確定したもの。いえ、もうすでにラプラスの悪魔jrによりすでに創造されていたものという事だとしたら。。。

    思考実験とはいえ、神を登場させると、何でもありの世界になって面白いですね。

    ラプラスの悪魔jrが創造し続けている五分後の世界を、人間は現在の私の世界観だと認識していますので、この世界は因果関係のない現象だけが現れているという事になるでしょうか。

    ラプラスの悪魔jrは、古典物理の法則ばかりでなく、量子力学等、現在のものばかりではなく、それ以外の未来に現れるであろう新しい事柄等の全てを知っており、瞬間的に創造し続けています。

    え?素粒子の正確な位置と速度を同時に決定する事は不可能だって?その世界では今はそうだね。だってまだ創造していないのだから。とラプラスの悪魔jrは笑います。不確定性原理も何のその、ラプラスの悪魔jrは、同時に現時点から五分後に現時点の状態を創造し続けているという設定ですので。

    そして現在の神。これは単に静かなる神と呼びましょうか。この神は、五分前に全てを作ったとか、五分後に現在の人間の認識を作り出し続けているというものではなく、今の瞬間を統治している存在という設定です。つまりは、五分前の神と五分後の神であるラプラスの悪魔jrを統合した存在です。

    静かなる神は、言います。
    「全てを受け入れなさい。あなたにはそれ以外は、何もできないのだから。」

    話は少し変わりますが、人間の倫理観を問う有名なトロッコ問題があります。統一した答えはないと言うのが一応の回答のようですが、2019年にある人が一つの答えを出しました。ポイント切り替えのレバーを中立にするという事のようです。レバーを中立にすると、レールがどちらにも完全には切り替わらずに、すぐにトロッコが脱線して、全員が助かるという事を、わざわざトロッコを実際に作ってやって見せているようです。一つの回答ですね。

    もう一つは、それから3年後の2022年にある人が考えた答えが、トロッコの前輪が切り替えポイントを通過した瞬間にレバーを逆に倒すというものです。これを行うと前輪と後輪が真逆の方向に進もうとしますので、これもすぐに横倒して脱線し、全員が助かるというものです。こちらも模型で実証しています。

    もともと答えが二択に誘導された倫理的ジレンマを問う思考実験でしたが、全員を救いたいという思いが、彼らの解決策を生み出したのかもしれません。そして、もしかすると彼らが発想したその5分後にラプラスの悪魔jrがその瞬間をすでに創造していたのかもしれません。そして彼ら、我々のその記憶は、五分前の神により、作られていたのかもしれませんね。哲学者というのは、真剣に面白いことを考えているのですね。。

    でも、このような五分前に神がとかラプラスの悪魔jrとかを設定せずに、因果関係の有無も含めて、現時点を単に神が創造し続けているとしたらで良いようにも思いますが。(笑)気づかれた方もおられるかもしれませんが、ここで設定した五分後の神であるラプラスの悪魔jrの正体は、現時点を創造し続けている神の事ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■32361 / inTopicNo.62)  この世界と意味
□投稿者/ 時 -(2023/08/09(Wed) 13:10:23)
    2023/08/09(Wed) 16:47:10 編集(投稿者)
    2023/08/09(Wed) 15:31:53 編集(投稿者)

    世界や意味についての考察をしてみます。

    この世界は何でできているのか?という問いを立てたとき、まずは、この世界とはどういう事を言ってるのかという事が最初に浮かびます。この世界・・という事は、その世界ではないという事で、この(私の)認識している世界(全て)という意味で考えてみたいと思います。ざっくりと表現するならば、私が五感(視・聴・嗅・味・触)で感じている全てという事になるでしょうか。これらを統合するのが、心といわれるものでしょう。つまり、この(私の)世界とは、私が五感で感じている全ての事柄、現象を表しており、その(あなたの)世界とは異質なものだという事が言えるでしょう。つまりは、共通している客観的な世界は存在しないと仮に結論してみます。

    仮に共通の客観的世界が存在していないのであれば、何がどこに存在しているのかを考えたとき、人である私の五感が感知したものを同時に、他人やミツバチやコウモリ、桜等の動植物が同じ捉え方をしているかというと同じではないように思えます。という事は、この世の中でこの世界を認識しているのは、この私だけということになりそうですね。

    共通の客観世界が存在しなのであれば、残るのは、主観世界のみになりそうですが、この主観世界の中で他人と会話する場合、その意味を認識しての言葉や文字の表現となると思われます。その意味が、通常は通じているように思いながらの会話をしているように感じていると思いますが、、実際には、この(私の世界の)言葉の意味は、この世界にのみ存在し、その(あなたの)世界には存在しているとは結論できませんので、その内容を指し示す意味なるものは存在しないのと同義だと思われます。つまりは、極論、独りよがりの内容を言葉として、文字として他の世界の住人に発信しているつもりになっているだけとなるでしょうか。

    例えば、Aさんから何かを言われた場合、私が「理解できる」と答えるとします。これは本当に理解しているのでしょうか?理解する場合は、その前にその表現された内容を認識しそれを解釈する必要があるでしょう。Aさんの世界から私の世界と共通しているらしき言葉が発せられ、それを私の世界での五感で感知し、私の知識となる段階においての知る作業(認識)からそれを私の世界で私なりの理解をします(解釈)。・・・という事は、Aさんの発した言葉の意味と私の理解した言葉の意味が同じだとするものは、何も担保するものがありません。つまりは、その意味が、通常は通じているように思いながらの会話というのは幻想でしょう。

    まとめると、何かを認識する場合にはここ(私の世界)に意味が生じてそれを認識し、認識しない、できない場合には、ここに意味は生起しません。そしてこれらの事が生起と滅尽し続けているのが、この世界と表現される、私のみが認識できるこの世界の事でしょう。

    有名な三段論法というのがあります。
    「人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」、故に「ソクラテスは死ぬ」。

    仮にソクラテスという名前の犬を代々飼っている人ならば、その人が初めて三段論法を聞いたのであれば、その人の世界の中では少しの混乱が起きるでしょう。

    「人間は死ぬ」そうだね。。「ソクラテスは人間である」ん?それは、飼い犬ですが??、故に「ソクラテスは死ぬ」。。。何の話だろう?

    仮に、大きな庭石にソクラテスという呼び名をつけている人ならば、その人が初めて三段論法を見たのであれば、その人の世界の中では大きな混乱が起きるでしょう。

    「人間は死ぬ」そうだね。。「ソクラテスは人間である」ん?我が家の庭石の事ですが??、故に「ソクラテスは死ぬ」。。。石は死なないよ。。

    恐らく、それぞれに住(認識)している世界が違い、その認識するものの意味する事柄の違いによる解釈の違いが生じていますので、会話が通じていません。

    ですので「総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。」今回、パニチェさんから教えていただいたニーチェの言葉のようですが、何の矛盾もなく、理解できそうです。

    何の矛盾もなく、理解できそうです。と書きましたが、、、はたしてこれは、本当でしょうか?何を担保としているのでしょうか?何もないはずですね。私が私の解釈をしているのみとなりそうです。

    人は、独りよがりの言葉(音)を発信しているのみで、それが肯定されれば喜びが生じ、否定されれば最終的には怒りが生じるような単なる装置なのかもしれません。ですので、その喜びや怒りという感情は、会話できるはず、できているはずという幻想がその根源かも知れませんね。そしてそれらを求めて人に会話という喜怒哀楽を発生させるための行為が起こるのかもしれません。

    もしも喜怒哀楽の感情の根源が幻想という会話等の認識から生起するのならば、その認識の根源は・・・私でしょうか?・・しかし私というのは、あくまでも仮の場の表現の事だと理解しています。この場合の場とは、幻想がその泉源での感情が噴き出してくる場の事を言っていますが、では、その場である泉源の大元は?と考えると・・その源泉はどのように表現しましょうか。その場である泉源をも生起させている正体のことですが、、神、意識、大いなるもの、自然等々と呼ぶことにしておきましょう。そこにはドグマも祈りも意味も価値も何もないでしょう。それ以降は、私の世界では退行できそうにありませんので、ここでギブアップです。
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■32300 / inTopicNo.63)  Re[29]: 自覚なき運命
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/06(Sun) 08:49:30)
    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。
    補足を兼ねて返信させてもらいますが、このレスへの返信はお気遣いなく♪

    No32284に返信(時さんの記事)

    > 原始にも、アングリマーラという殺人鬼が最終的には阿羅漢果として解脱するお話がありますが、もしもアングリマーラに悪魔が「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と尋ねたとしたら・・・きっと無言で立ち去りそうですが。(笑)

    アングリマーラの話は『中村元選集第13巻 仏弟子の生涯』で読みました。
    親鸞聖人の悪人正機(善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや)の原型のように思えました。

    > ありがとうございます。ここで印象深いのが「いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。」というところです。心の片隅で、ニーチェは自由意思についてどのように考えていたのだろうか?という思いもありましたが、この一文で十分に理解できました。^^自ら何かの行為をした感覚があったとしても、そこには意味は在りませんので、あまり積極的には表現しませんが、私の人生哲学において、自由意思はないと結論していましたので。

    なるほど。少なくとも見性は我(個我)が主体となって体験するようなものではなさそうですね。
    道元禅師も正法眼蔵で「諸仏が真理を体験するとき、万物が真理を体験する。たしかに覚者と万物は、表面的に見れば同一のものではない。しかし、真理を体験するとき、おのおのの体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。これが仏道の明確な教えである」と記されており、これはリアルな話なんだろうなぁ〜となんとなく分かります。

    > >『私の哲学は階序をめざしている。個人主義的道徳をめざしているのではない。畜群の感覚は畜群のうちで支配すべきである。──しかしそれ以上に手をのばしてはならない。畜群の指導者は、これとは根本的に異なったおのれ自身の行為の価値評価を必要とする、同様に独立者、ないしは「猛獣」その他も。(力への意志 第287番)』
    > 失礼しました。やはり、上記アフォリズムの指導者についての私の誤読です。

    なるほど、上記のアフォリズムからでしたか。既に言うまでもないとは思いますが「おのれ自身の行為の価値評価を必要とする」のは畜群の指導者、例えばキリスト教の僧侶(指導者)のことですね。

    > 読者を突き放すというのは、このような意味でしたか。これは、神のような概念的存在にもしがみ付くという事を許さないという意味になるのでしょう。あくまでも独りの人間として自らの生の肯定とともに、自らの足で大地を歩むというイメージになるでしょうか。で、犀の角のようにただ独り歩め。とイメージ的にもなるのですね。

    そうです。

    > その昔からインドでは、多くのものがその教えを求めて聖者のもとに集うが、あなた方が聖者を選ぶのではない。聖者があなたを選ぶのだ。といったことが言われます。その意味するところは、書籍の方からも読者が選ばれるという意味合いと同じでしょう。

    インドでも同じようなことが言われていたのですね。古今東西に通用する金言のようです。

    > はい。よく理解できます。当時の宗教的善悪の価値観の基準(ドグマ)を否定した、本来の人間としての立つべき立ち位置という事ですね。

    その通りです。

    > 禍因の元凶ですか。清々しいほどの表現ですね。(笑)恐らくは、私ならばスルーですが、ニーチェは、自覚なく畜群道徳という運命を背負った人々にモノ言わずにはいられなかったのでしょうか。

    ニーチェの祖父は幾つの著書も残されている神学博士であり、アイレンブルグの管区総監督牧師の地位にも昇った、世間から広く尊敬を集めていた人物で、父親もルーテル教会の牧師で地元の名士でした。両親共に牧師を多く排出した家系にあり、その長男として厳格な家庭に生まれたこともあり、幼少期から思春期まではまさしくツァラトゥストラが精神の三変化で語った「汝なすべし」という命令を背負いつつ砂漠を行く駱駝でした。そういう境遇もあり「自覚なく畜群道徳という運命を背負った人々にモノ言わずにはいられなかった」のだと思います。

    > なるほど。そうですね。自らの意志で自らを律している間(修業中)では、私の場合には、自灯明法灯明が中心に位置するでしょうか。(言い訳として)誰かが何かを言ったからという事ではなく、最終的に他責にするのではなく、自らの意志として何事も決定してくという事ですね。

    はい、そういうことだと思います。

    > 何やらお役に立てているのであれば 、喜ばしい事ですね。^^
    > 最初は、ニーチェという名前くらいしか知らなかったのですが、お陰様で、うっすらとではあるとは思いますが、少しはその概略が理解できたように感じています。その背景にある、当時のキリスト等の宗教における事の善悪の判断基準、道徳基準からの脱却、プラトニズムの批判、自由意思の否定、そして一元的な善悪の彼岸に立つ超人思想。今回も大変勉強になりました。ありがとうございました。m(__)m

    こちらこそ、ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■32284 / inTopicNo.64)  自覚なき運命
□投稿者/ 時 -(2023/08/05(Sat) 21:33:35)
    パニチェさん、こんにちは。ご丁寧な返信をありがとうございます。

    No32272 No32273

    > ニーチェは最後の審判や死後世界などプラトニズムを代表する背後世界を否定あるいは無記としていることから重要なのは生であり、生は生に自己完結するという実存主義の先駆けでもあります。

    > あと先のアフォリズムにもあったように生の中で『何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と』問いつつ物事を決断し為すべきだ、また絶えざる自己超克を生のベクトルとしないかぎり、この悪魔の問いに耐えられないだろう?というような教訓?挑発?めいた意味も含まれていると思います。

    なるほど。。過去に犯してしまった自ら自覚している罪等、思いとしての消し去りたい罪悪感や思い残しがあるのが人の常だと思いますが、それをも含めて「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いはやはり悪魔的な問いですね。そして、これを問いつつ物事を決断し為すべきだ、また絶えざる自己超克を生のベクトルとしないかぎり、この悪魔の問いに耐えられないだろう?というような教訓ですか。。なるほどとしか表現のしようがないようですね。

    結論的には、過去の過ちは忘れてとか、新たな自身として出発するのだとかではなく、それら過去の出来事や過ちの行為も全て含めての肯定。つまりは全肯定ができればよいという事でしょう。恐らくこれには、二元の世界観から脱し、まずは、一元の世界観を獲得しなければ不可能だろうと思います。そしてこのこと自体は、可能か不可能かと問われれば、可能だと答えるでしょうか。そう思います。

    原始にも、アングリマーラという殺人鬼が最終的には阿羅漢果として解脱するお話がありますが、もしもアングリマーラに悪魔が「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と尋ねたとしたら・・・きっと無言で立ち去りそうですが。(笑)

    > 『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』

    ありがとうございます。ここで印象深いのが「いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。」というところです。心の片隅で、ニーチェは自由意思についてどのように考えていたのだろうか?という思いもありましたが、この一文で十分に理解できました。^^自ら何かの行為をした感覚があったとしても、そこには意味は在りませんので、あまり積極的には表現しませんが、私の人生哲学において、自由意思はないと結論していましたので。

    > あと超人に至る精神の三変化という例えがツァラトゥストラで語られます。
    > 駱駝、獅子、無垢なる小児への変化です。

    > 「汝為すべし」というキリスト教道徳を背負い強靭な精神とともに砂漠を行く駱駝は、「我欲す」という雄叫びとともに既存価値との闘争に挑みます、これは本来の自己に回帰するという意味も含まれます。闘争によってかちえた自分の世界にあって、さらなる価値創造のためには「否」という闘争ではなく「然り」という遊戯が必要であるからこそ、シシは子供に変化します。「無垢なる戯れ」とは自己と存在の戯れのことであり、自らが創造した世界では何ものも反対物としては存在せず、自己の存在と万物の存在が一体化する世界となるというような世界観です。

    きっと、なんでもOK!問題ないです!という、何事にも青筋を立てない戯れの世界観、人生観ですね。

    > 超人は指導者というイメージは私にはないです。

    No32218
    >『私の哲学は階序をめざしている。個人主義的道徳をめざしているのではない。畜群の感覚は畜群のうちで支配すべきである。──しかしそれ以上に手をのばしてはならない。畜群の指導者は、これとは根本的に異なったおのれ自身の行為の価値評価を必要とする、同様に独立者、ないしは「猛獣」その他も。(力への意志 第287番)』

    失礼しました。やはり、上記アフォリズムの指導者についての私の誤読です。

    > 動物→人間→超人という進化のベクトルの延長でもある人間の理想的進化系(精神的進化)でもあり、神のアンチテーゼであることから、神とは異なり読者に対して固定的なイメージは強要しません(読者を突き放します)。
    > 但し、方向性というか、きわめて抽象的な表現で神なき次世代の理想的人間像として語られています。

    読者を突き放すというのは、このような意味でしたか。これは、神のような概念的存在にもしがみ付くという事を許さないという意味になるのでしょう。あくまでも独りの人間として自らの生の肯定とともに、自らの足で大地を歩むというイメージになるでしょうか。で、犀の角のようにただ独り歩め。とイメージ的にもなるのですね。

    > 人類を超人へと導こうとしている指導者は、超人の告知者というか予言者としてのツァラトゥストラ(ニーチェの主著でもあるツァラトゥストラという物語に登場する主人公にしてニーチェの分身)です。

    ありがとうございます。了解しました。

    > はい、ニーチェは劇薬という言葉は使ってないです。ただ自分の哲学は『丈夫な歯と丈夫な胃、私が君にのぞむのはこれだ!そうして君が私の本を消化してこそ、私と昵懇になれるのは必定!(悦ばしき知識 たわむれ、たばかり、意趣ばらし54)』と述べており、『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』とも述べており、「読者が書籍を選ぶように、高貴な(大衆迎合的ではない)書籍は、書籍の方からも読者が選ばれる」としています。

    なるほど、ニーチェは、なかなかな表現をするのですね。^^

    その昔からインドでは、多くのものがその教えを求めて聖者のもとに集うが、あなた方が聖者を選ぶのではない。聖者があなたを選ぶのだ。といったことが言われます。その意味するところは、書籍の方からも読者が選ばれるという意味合いと同じでしょう。

    > 「善悪の彼岸」には二つの意味があります。
    > ひとつは言葉としての意味、もうひとつはツァラトゥストラに続いて出版された書籍としての「善悪の彼岸」です。

    > 最初に言葉としての意味を書いてみます。
    > 結論から言えば「善悪の彼岸」とはユダヤ・イスラム・キリスト教的道徳(以降はキリスト教道徳と省略します)を超克した超人が立脚する大地(天を重んじたドグマに対するアンチテーゼで人間が立脚する大地)のことです。

    はい。よく理解できます。当時の宗教的善悪の価値観の基準(ドグマ)を否定した、本来の人間としての立つべき立ち位置という事ですね。

    > 此岸とはキリスト教道徳であり善悪二元論的な倫理観です。
    > ニーチェによればキリスト教道徳は奴隷として生まれついた不幸な民族、ユダヤ人のルサンチマン(弱者が強者に抱く怨恨感情と訳されますが、現代風に言えばコンプレックスから生じる反動みたいなものです)によって生み出された奴隷道徳であると断罪します。

    > 人間によって支配・拘束された自分たちは本来は神に選ばれし民(選民思想)であり、自分たちを支配するのは唯一無二の絶対神であるヤハウェ(ヘブライ語でありアラビア語ではアラー)である。
    > 神からトップダウン的に与えられた道徳観こそ絶対であり、これによれば原罪を背負う生は罪深いものであり、死後に訪れる神による最後の審判によって神の国へ召されることを生の目的や意義とする。
    > 生よりも最後の審判が重要視され、欲望は罪深いものであり(禁欲主義の推奨)、隣人愛が説かれる。

    > これらは本来無垢でありダイナミックであるべき人間の生を委縮させ、言語を有して生まれ、あらゆるものに意味や価値を付与しうる特権的動物である人間を均一化(弱体化)させ家畜の如く飼いならす畜群的道徳(上から与えられる奴隷道徳)であって、福音どころか禍因の元凶とニーチェは看破します。

    禍因の元凶ですか。清々しいほどの表現ですね。(笑)恐らくは、私ならばスルーですが、ニーチェは、自覚なく畜群道徳という運命を背負った人々にモノ言わずにはいられなかったのでしょうか。

    > この彼岸にあるのが君主道徳です。
    > 君主とは高貴な精神の象徴的表現であり、誰に強要されたり与えられるような倫理観ではなく、自らの意志で自らを律する道徳です。
    > 君主道徳が具体的にどのようなものかは最終的には読者に委ねられており、少なくとも此岸的な奴隷道徳のアンチテーゼである方向性が示されているのみです。
    > 私個人的には武士道とか自洲・法洲(自灯明・法灯明)に相通じるものとしてのイメージを抱いてます。

    なるほど。そうですね。自らの意志で自らを律している間(修業中)では、私の場合には、自灯明法灯明が中心に位置するでしょうか。(言い訳として)誰かが何かを言ったからという事ではなく、最終的に他責にするのではなく、自らの意志として何事も決定してくという事ですね。

    > 次に書籍としての「善悪の彼岸」ですが、この書籍はあまりに不評というか無視され続けた「ツァラトゥストラ」の補足として書かれた部分もあり、キリスト教道徳を超克した高貴さとは何かについて書かれた書籍です。この書籍の解説をニーチェ自身が「この人を見よ」で解説していますので、以下に引用しておきます。

    > 『この本(1886年)はすべての本質的な点において近代性の批判である。近代科学、近代芸術、いや近代政治さえも除外されていない。と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的ならざる一つの反対典型、高貴な、然りを言う典型を示唆しようとするものである。この後者の意味においてはこの本は一つの貴公子の学校である。ただし、この貴公子という概念を史上最高に精神的かつラディカルに解していただきたい。この概念に耐えるだけのためにも身によほどの勇気がいる。恐れるなどということを習い知ったらもうだめだ…時代が誇りとしているすべてのものが、この典型に対する矛盾と感じられ、無作法とさえ思われる。たとえばあの有名な「客観性」がそうだ。「すべての悩める者への同情」などというのもそうだし、他人の趣味への屈従、瑣末事』への平伏がつきものであるあの「歴史的感覚」とか、例の「科学性」などもそうだ。(ニーチェ著「この人を見よ」よりの引用)』

    上記の引用文は、難しいですね。今の私では、よく理解できません。

    > PS.時さんのお陰で久々にPanietzsche Roomの第4章インモラリストにこの返信を追加できました。

    何やらお役に立てているのであれば 、喜ばしい事ですね。^^

    最初は、ニーチェという名前くらいしか知らなかったのですが、お陰様で、うっすらとではあるとは思いますが、少しはその概略が理解できたように感じています。その背景にある、当時のキリスト等の宗教における事の善悪の判断基準、道徳基準からの脱却、プラトニズムの批判、自由意思の否定、そして一元的な善悪の彼岸に立つ超人思想。今回も大変勉強になりました。ありがとうございました。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■32280 / inTopicNo.65)  Re[29]: 超人
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/05(Sat) 19:57:18)
    2023/08/05(Sat) 20:01:36 編集(投稿者)

    No32279に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > パニさん、
    > ニーチェの言う「超人」って、
    > 性別(男性・女性)は関係ないよね。

    うん、関係ないよ。

    ニーチェからすれば『意識。──意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。(悦ばしき知識 第一書の11)』ってことで、進化の伸びしろは最も遅れた発展で未熟な意識(精神性)にあるから、性別も含めた身体性は関係ないわ。

    ただ女性に関してはニーチェの願望からの記述も多く、ちょっと(女性からすれば)腹立たしいアフォリズムもあるとは思うよ(笑)。
引用返信/返信 削除キー/
■32279 / inTopicNo.66)  超人
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/08/05(Sat) 19:24:40)
    パニさん、
    ニーチェの言う「超人」って、
    性別(男性・女性)は関係ないよね。

引用返信/返信 削除キー/
■32273 / inTopicNo.67)  時さんへ2>善悪の彼岸
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/05(Sat) 09:47:53)
    2023/08/05(Sat) 13:21:54 編集(投稿者)

    「善悪の彼岸」には二つの意味があります。
    ひとつは言葉としての意味、もうひとつはツァラトゥストラに続いて出版された書籍としての「善悪の彼岸」です。

    最初に言葉としての意味を書いてみます。
    結論から言えば「善悪の彼岸」とはユダヤ・イスラム・キリスト教的道徳(以降はキリスト教道徳と省略します)を超克した超人が立脚する大地(天を重んじたドグマに対するアンチテーゼで人間が立脚する大地)のことです。

    此岸とはキリスト教道徳であり善悪二元論的な倫理観です。
    ニーチェによればキリスト教道徳は奴隷として生まれついた不幸な民族、ユダヤ人のルサンチマン(弱者が強者に抱く怨恨感情と訳されますが、現代風に言えばコンプレックスから生じる反動みたいなものです)によって生み出された奴隷道徳であると断罪します。

    人間によって支配・拘束された自分たちは本来は神に選ばれし民(選民思想)であり、自分たちを支配するのは唯一無二の絶対神であるヤハウェ(ヘブライ語でありアラビア語ではアラー)である。
    神からトップダウン的に与えられた道徳観こそ絶対であり、これによれば原罪を背負う生は罪深いものであり、死後に訪れる神による最後の審判によって神の国へ召されることを生の目的や意義とする。
    生よりも最後の審判が重要視され、欲望は罪深いものであり(禁欲主義の推奨)、隣人愛が説かれる。

    これらは本来無垢でありダイナミックであるべき人間の生を委縮させ、言語を有して生まれ、あらゆるものに意味や価値を付与しうる特権的動物である人間を均一化(弱体化)させ家畜の如く飼いならす畜群的道徳(上から与えられる奴隷道徳)であって、福音どころか禍因の元凶とニーチェは看破します。

    この彼岸にあるのが君主道徳です。
    君主とは高貴な精神の象徴的表現であり、誰に強要されたり与えられるような倫理観ではなく、自らの意志で自らを律する道徳です。
    君主道徳が具体的にどのようなものかは最終的には読者に委ねられており、少なくとも此岸的な奴隷道徳のアンチテーゼである方向性が示されているのみです。
    私個人的には武士道とか自洲・法洲(自灯明・法灯明)に相通じるものとしてのイメージを抱いてます。


    次に書籍としての「善悪の彼岸」ですが、この書籍はあまりに不評というか無視され続けた「ツァラトゥストラ」の補足として書かれた部分もあり、キリスト教道徳を超克した高貴さとは何かについて書かれた書籍です。この書籍の解説をニーチェ自身が「この人を見よ」で解説していますので、以下に引用しておきます。

    『この本(1886年)はすべての本質的な点において近代性の批判である。近代科学、近代芸術、いや近代政治さえも除外されていない。と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的ならざる一つの反対典型、高貴な、然りを言う典型を示唆しようとするものである。この後者の意味においてはこの本は一つの貴公子の学校である。ただし、この貴公子という概念を史上最高に精神的かつラディカルに解していただきたい。この概念に耐えるだけのためにも身によほどの勇気がいる。恐れるなどということを習い知ったらもうだめだ…時代が誇りとしているすべてのものが、この典型に対する矛盾と感じられ、無作法とさえ思われる。たとえばあの有名な「客観性」がそうだ。「すべての悩める者への同情」などというのもそうだし、他人の趣味への屈従、瑣末事』への平伏がつきものであるあの「歴史的感覚」とか、例の「科学性」などもそうだ。(ニーチェ著「この人を見よ」よりの引用)』


    PS.時さんのお陰で久々にPanietzsche Roomの第4章インモラリストにこの返信を追加できました。

引用返信/返信 削除キー/
■32272 / inTopicNo.68)  時さんへ1>劇薬的アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/05(Sat) 09:46:10)
    2023/08/05(Sat) 18:07:50 編集(投稿者)

    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。

    No32264に返信(時さんの記事)

    > 少なくとも生きている間の私には、死んだあとが永遠回帰なのか輪廻転生なのかは確信をもっては分かりはしないでしょうから、大切なのは今ある生なのだと思います。ニーチェは、仮にという事で悪魔の言葉として・・という事での問いかけですね。

    全くもってその通りです。あのアフォリズムからそこまで読み込める時さんの読解力は素晴らしいです!
    ニーチェは最後の審判や死後世界などプラトニズムを代表する背後世界を否定あるいは無記としていることから重要なのは生であり、生は生に自己完結するという実存主義の先駆けでもあります。

    あと先のアフォリズムにもあったように生の中で『何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と』問いつつ物事を決断し為すべきだ、また絶えざる自己超克を生のベクトルとしないかぎり、この悪魔の問いに耐えられないだろう?というような教訓?挑発?めいた意味も含まれていると思います。

    > 最初ネットで拾い読みをしていた時の第一印象は、ニーチェの言葉等の表現は違っても、最終的なその観念的な世界観は、アドヴァイタの世界観によく似ているなぁというものでした。結論的には、同じところに行きつくという、生の肯定がテーマだったようにも思えます。

    ここもその通りです。前にも返信しかたかもしれませんが、以下のアフォリズムからしてニーチェは静養先で仏教的な見性体験にかすっていると思います。
    このアフォリズムは道元禅師著『正法眼蔵 画餅』ともの凄く似ています(参照:Panietzsche Room > ニーチェU > 第11章永劫回帰 > 3.ニーチェと道元)。

    『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』

    あと超人に至る精神の三変化という例えがツァラトゥストラで語られます。
    駱駝、獅子、無垢なる小児への変化です。

    「汝為すべし」というキリスト教道徳を背負い強靭な精神とともに砂漠を行く駱駝は、「我欲す」という雄叫びとともに既存価値との闘争に挑みます、これは本来の自己に回帰するという意味も含まれます。闘争によってかちえた自分の世界にあって、さらなる価値創造のためには「否」という闘争ではなく「然り」という遊戯が必要であるからこそ、シシは子供に変化します。「無垢なる戯れ」とは自己と存在の戯れのことであり、自らが創造した世界では何ものも反対物としては存在せず、自己の存在と万物の存在が一体化する世界となるというような世界観です。

    > 少し話はずれるかもしれないのですが、善悪の彼岸とは善と悪を超越したところのもの、つまり、既存の道徳的価値観を超えたもの、従来の道徳からの解放を意味している。とのネット上での説明がありますが、もしもこの説明が正しいのであれば、やはりこれは、既存の道徳的価値観を超越したという意味だけではなく、不二一元の世界観とも被って解釈できそうだなと思いました。善と悪を超越した、既存の道徳的価値観の縛りを超えた一元的な視点の獲得です。だからといって、非道徳的な行為を行う事を推奨しているという意味でもないのは、当然のことですね。

    はい。但しニーチェが否定した道徳観は日本人の道徳観とは異なりますね(次の投稿でまとめてみます)。

    > もしも善と悪を超越した立ち位置に至れたのであれば、従来の道徳等の判断基準は偏らずに崩壊、消滅しますね。もとより、これはその基準自体が、作り上げられた極論で意味のない幻想であるという意味の理解が起こるという事になるでしょうか。ここは誤読かもしれませんが、現在の感想としては、ニーチェの超人は、指導者としての自身の行為の価値評価を必要とするのかなと思いましたが、アドヴァイタのゴールには指導者というもの自体は存在しませんので、もしもそうならば、ここの違いがあるように感じました。

    超人は指導者というイメージは私にはないです。
    動物→人間→超人という進化のベクトルの延長でもある人間の理想的進化系(精神的進化)でもあり、神のアンチテーゼであることから、神とは異なり読者に対して固定的なイメージは強要しません(読者を突き放します)。
    但し、方向性というか、きわめて抽象的な表現で神なき次世代の理想的人間像として語られています。

    人類を超人へと導こうとしている指導者は、超人の告知者というか予言者としてのツァラトゥストラ(ニーチェの主著でもあるツァラトゥストラという物語に登場する主人公にしてニーチェの分身)です。

    > あるのは解釈のみだというニーチェ。だから、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。という、言わば一元的な視点での捉え方をしているようにやはり観えます。

    はい、最終的には無我ですね。

    > パニチェさんも仰るように、短いレスのやり取りだけでは仰る劇薬という言葉の解釈、意味が現在の私には理解できないでしょう。最初は、ニーチェのアフォリズムのどこかに劇薬というワードがあるのかな?と思っていましたので探してみましたが、どうも違うようですね。

    はい、ニーチェは劇薬という言葉は使ってないです。ただ自分の哲学は『丈夫な歯と丈夫な胃、私が君にのぞむのはこれだ!そうして君が私の本を消化してこそ、私と昵懇になれるのは必定!(悦ばしき知識 たわむれ、たばかり、意趣ばらし54)』と述べており、『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』とも述べており、「読者が書籍を選ぶように、高貴な(大衆迎合的ではない)書籍は、書籍の方からも読者が選ばれる」としています。

    > 実は前回、興味が起こった事柄が2つありました。それは、パニチェさんが表現された劇薬というワードと、善悪の彼岸というニーチェの表現の2つでした。もしもよろしければ、次回、お時間のある時にでも善悪の彼岸についてのパニチェさんの考察をお聞かせ頂ければ有難いです。勿論、スルーでもかまいません。

    時さんもおそらくそうだと思いますが、問いに返信するのは自分の考えを再確認し、整理しつつまとめるきっかけになり有益です。このプロセスには思わぬ発見もあり、スルーなんてとんでもありません。

    次の投稿で私が読解するところのニーチェの言う「善悪の彼岸」について投稿させてもらいます。

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■32264 / inTopicNo.69)  Re[26]: 劇薬的アフォリズム
□投稿者/ 時 -(2023/08/04(Fri) 16:32:55)
    パニチェさん、こんにちは。お忙しいところ、返信をありがとうございます。

    No32218 No32219

    > これはなかなか短い返信では伝えにくいところがあるのと、ニーチェ哲学の別名として「解釈の哲学」というのがありまして、読者がニーチェのアフォリズムを解釈し新たな価値を創造するというのもニーチェならではの特徴です。固定的あるいは普遍的な真理を否定した上で最終的には読者を突き放すのがニーチェです。

    > 時さんが指摘している「自らの生に対する全肯定」の思想というのは運命愛と永劫回帰のことだと思います。
    > この二つは全肯定の両側面で元になるアフォリズムは以下です。

    > 現状の自分と生を最も厳しく、かつ高貴に全肯定するには「今まで自分が生きてきた全ての経験(二度と経験したくないようなことも含め)を無数度にわたって生れ変わっても経験するのはどうか?」という問いに対して迷わず「然り!」と答えることが条件であり、これをもって運命愛に至るというような内容です。

    なるほど。簡潔なご説明でよく分かるつもりでいます。ありがとうございます。この視点としての発想で考えたことはありませんでしたが、考えてみると、私の理解する仏教でのゴールは解脱ですので、ニーチェの永遠回帰と仏陀の解脱は、反対の帰結を仮定していますね。まぁ、少なくとも生きている間の私には、死んだあとが永遠回帰なのか輪廻転生なのかは確信をもっては分かりはしないでしょうから、大切なのは今ある生なのだと思います。ニーチェは、仮にという事で悪魔の言葉として・・という事での問いかけですね。

    最初ネットで拾い読みをしていた時の第一印象は、ニーチェの言葉等の表現は違っても、最終的なその観念的な世界観は、アドヴァイタの世界観によく似ているなぁというものでした。結論的には、同じところに行きつくという、生の肯定がテーマだったようにも思えます。

    > あと毒(読みようによってはサイコパスっぽい内容もあります)のあるアフォリズムをいくつか引用しておきますが、ニーチェが劇薬であることはなかなかこの返信だけでは伝わらないと思います。

    ありがとうございます。了解しました。勿論これらのレスを多く繰り返したとしても、パニチェさんのご認識と私の理解では、そこに食い違いが生じるでしょうし、同時にそれを埋めることも完全には不可能だろうとも思っています。

    > 『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』

    > 『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    少し話はずれるかもしれないのですが、善悪の彼岸とは善と悪を超越したところのもの、つまり、既存の道徳的価値観を超えたもの、従来の道徳からの解放を意味している。とのネット上での説明がありますが、もしもこの説明が正しいのであれば、やはりこれは、既存の道徳的価値観を超越したという意味だけではなく、不二一元の世界観とも被って解釈できそうだなと思いました。善と悪を超越した、既存の道徳的価値観の縛りを超えた一元的な視点の獲得です。だからといって、非道徳的な行為を行う事を推奨しているという意味でもないのは、当然のことですね。

    もしも善と悪を超越した立ち位置に至れたのであれば、従来の道徳等の判断基準は偏らずに崩壊、消滅しますね。もとより、これはその基準自体が、作り上げられた極論で意味のない幻想であるという意味の理解が起こるという事になるでしょうか。ここは誤読かもしれませんが、現在の感想としては、ニーチェの超人は、指導者としての自身の行為の価値評価を必要とするのかなと思いましたが、アドヴァイタのゴールには指導者というもの自体は存在しませんので、もしもそうならば、ここの違いがあるように感じました。

    > 『現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。
    > 「すべてのものは主観的である」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観」はなんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。──解釈の背後にはなお解釈者を立てることが、結局は必要なのだろうか?すでにこのことが、仮構であり、仮設である。
    > 総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。──「遠近法主義。」(力への意志 第481番)』

    あるのは解釈のみだというニーチェ。だから、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。という、言わば一元的な視点での捉え方をしているようにやはり観えます。

    パニチェさんも仰るように、短いレスのやり取りだけでは仰る劇薬という言葉の解釈、意味が現在の私には理解できないでしょう。最初は、ニーチェのアフォリズムのどこかに劇薬というワードがあるのかな?と思っていましたので探してみましたが、どうも違うようですね。

    実は前回、興味が起こった事柄が2つありました。それは、パニチェさんが表現された劇薬というワードと、善悪の彼岸というニーチェの表現の2つでした。もしもよろしければ、次回、お時間のある時にでも善悪の彼岸についてのパニチェさんの考察をお聞かせ頂ければ有難いです。勿論、スルーでもかまいません。
引用返信/返信 削除キー/
■32219 / inTopicNo.70)  Re[25]: 劇薬的アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/03(Thu) 08:33:26)
    『神のまえではすべての「魂」が平等となったが、しかし、これこそまさしくすべての可能な価値評価のうちで最も危険なものである!個々人が平等視されれば、類は疑問視され、ついには類の壊滅をひきおこす実践がよしとされる。すなわち、キリスト教は淘汰にそむくその反対の原理である。・・・真正の人間愛は類の最善のための犠牲を要求する、──それは冷酷であり、それは自己超克に満ちている、とうのは、それは人身御供を必要とするからである。ところがキリスト教とよばれる似非ヒューマニティーは、誰ひとりとして犠牲にされないということをこそ貫徹しようと欲するのである。(力への意志 第246番)』

    『万人向きの書物はつねに悪臭を放つ書物であり、そこには小人臭がこびりついている。(善悪の彼岸 自由な精神30)』

    『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』

    『いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見出せ、と命じる。そして、きみたちがみな私を否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。まことに、わたしたちの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人の中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡って行く者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」──これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを!──このようにツァラトゥストラは語った。(ツァラトゥストラ 贈与する徳について3)』

    『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』

    『あまりにも東洋的。──何ですって?人間が彼を信仰するならば、人間を愛してくれる神だって!この愛を信じない者には怖るべき眼光と威嚇を投げつける神だって!何ですって?全能の神の感情としての但し書きつきの愛だって!名誉心や復讐欲をどうしても制しきれない愛だって!なにもかもが何と東洋的であることだ!「私が君を愛したとて、それが君に何のかかわりがあろう?」──こういうだけでもすでにキリスト教全体に対する十分の批判である。(悦ばしき知識 第141番)』

    『道徳的に表現すれば、世界は偽である。しかも道徳自身がこの世界の一部であるかぎり、道徳は偽である。真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つまりつくりださるべ或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の代名詞である(力への意志 第552番)』

    『現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。
    「すべてのものは主観的である」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観」はなんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。──解釈の背後にはなお解釈者を立てることが、結局は必要なのだろうか?すでにこのことが、仮構であり、仮設である。
    総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。──「遠近法主義。」(力への意志 第481番)』
引用返信/返信 削除キー/
■32218 / inTopicNo.71)  劇薬>時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/03(Thu) 08:09:34)
    No32044に返信(時さんの記事)

    こんちには、時さん。レスありがとうございます。
    時間できたので返信させてもらいます。

    >>あと実践的な人生哲学としてはニーチェと仏教の複合体(劇薬であるニーチェを仏教で中和するというかなんというか、うまく言えませんが)です。
    > ここで表現されている「劇薬であるニーチェ」という事なのですが、ニーチェ哲学の自らの生に対する全肯定の思考方法の事を、パニチェさんは劇薬と仰っているのでしょうか?
    > 私自身は、多くの専門的な哲学者の思考の世界の事はほぼ知らず、ネットでつまみ食いをする程度の知識ですので、ニーチェに関しても何が劇薬なのかが分からないのですね。
    > 今回は、この件を宜しくお願。

    これはなかなか短い返信では伝えにくいところがあるのと、ニーチェ哲学の別名として「解釈の哲学」というのがありまして、読者がニーチェのアフォリズムを解釈し新たな価値を創造するというのもニーチェならではの特徴です。固定的あるいは普遍的な真理を否定した上で最終的には読者を突き放すのがニーチェです。

    時さんが指摘している「自らの生に対する全肯定」の思想というのは運命愛と永劫回帰のことだと思います。
    この二つは全肯定の両側面で元になるアフォリズムは以下です。

    『最大の重し。──もしある日、もしくはある夜なり、デーモンが君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、──「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛をあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、──さればこの蜘蛛も、樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねばならぬ。存在の永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし巻き戻される──それとともに塵の塵であるお前も同じく!」──これを耳にしたとき、君は地に身を投げ出し、歯ぎしりして、こう告げたデーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答えるだろうか。もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは紛糾するであろう。何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかるであろう!もしくは、この究極の永遠な裏書と確証とのほかにはもはや何ものをも欲しないためには、どれほど君は自己自身と人生を愛惜しなければならないだろうか?──(悦ばしき知識 第341番)』

    現状の自分と生を最も厳しく、かつ高貴に全肯定するには「今まで自分が生きてきた全ての経験(二度と経験したくないようなことも含め)を無数度にわたって生れ変わっても経験するのはどうか?」という問いに対して迷わず「然り!」と答えることが条件であり、これをもって運命愛に至るというような内容です。

    あとスッタニパータにもあるように「犀の角のようにただ独り歩め」的なアフォリズムもあります。
    『ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(ツァラトゥストラ 序説)』
    『きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってする。だが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と。(ツァラトゥストラ 隣人愛について)』

    あと毒(読みようによってはサイコパスっぽい内容もあります)のあるアフォリズムをいくつか引用しておきますが、ニーチェが劇薬であることはなかなかこの返信だけでは伝わらないと思います。

    『犯罪者は何よりも先ず一種の破壊者なのだ。全体に対し契約と約束を破った者、彼がそれまでの分け前を受けてきた共同生活のあらゆる財産と便宜に関連していえば、これを破壊した者なのである。犯罪者は自分が受けてきた利益や前借を返済しないばかりか、その債権者たる共同体に向かって楯つきさえする債権者にほかならない。だからこういう者は、当然ながら、そのすべての財産と利益を失うだけにとどまらないで──これらの財産がいかに貴重なものであるかを今や思いしらされる破目になるのだ。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、これまでその男がその保護によってまぬかれていた野蛮な追放の状態へ、ふたたびこの男をつきもどす。共同体は犯罪者を閉め出す──今やこの男に対してはどんな敵意を爆発させても天下御免ということになるのだ。「刑罰」はこういう段階の開化状態では、憎みてもなお余りある敵に対する普通の処置を模倣したもの、「真似事」にすぎない。なぜなら敵は屈服した以上、武装解除を受け、いっさいの権利と保護のみならず、いっさいの恩恵をも失うことになるのが、普通の処置だからである。こうして刑罰の場合も、「征服サレタル者ハ禍イナルカナ!」式の戦争法規と戦勝祝賀式がまことに情容赦もなく残虐のかぎりをつくすのだ。──このことから、戦争というもの(戦時の犠牲祭もふくめて)こそ、歴史上にあらわれる刑罰のすべての形式をあたえた淵源であったことが説明されたのである。(道徳の系譜 『罪』、『良心の呵責』、その他 第9番)』

    『生そのものは本質的に他者や弱者をわがものにすること、傷つけること、制圧することであり、抑制であり、冷酷であり、自己の形式を押しつけることであり、他者を併合することであり、少なくとも、もっとおだやかに言っても搾取である、・・・それは力への意志の化身でなくてはならないであろう。それは生長し、広がり、独占し、優勢を占めようと欲するだろう、──それも何らかの道徳性や不道徳性からではなく、それが生きているから、生がまさに力への意志であるから、そうするのである。・・・「搾取」は、堕落した、あるいは不完全で原初的な社会に属するのではない。それは有機的な根本機能として、生けるものの本質に属しており、まさに生の意志である本来の力への意志の、一つの帰結なのである。──かりに、これが理論として革新的なものであるとしても、──現実としては、それはすべての歴史に含まれる根本事実である…せめてこれを認めるほどには、自らに対して正直であってほしいものだ!──(善悪の彼岸 高貴とは何か 第257番)』

    『無節度な連中の口にする同情の道徳。──自己を十分に統制できず、また道徳性というものは大事につけ小事につけ絶えず実践される自制であり克己であることを知らない連中はすべて、知らず知らずのうちに、善良で思いやり深く親切なさまざまなか感動の賛美者、〔分別的な〕頭脳を持たず、ただ心胸と人助けの好きな手だてからできあがっているみたいな、例の本能的な道徳心の賛美者となる。実際、理性の道徳性には疑義を示して、それとは別の、例の本能的な道徳性を唯一のものとすることが彼らの関心事である。(人間的、あまりに人間的U46)』

    『私の哲学は階序をめざしている。個人主義的道徳をめざしているのではない。畜群の感覚は畜群のうちで支配すべきである。──しかしそれ以上に手をのばしてはならない。畜群の指導者は、これとは根本的に異なったおのれ自身の行為の価値評価を必要とする、同様に独立者、ないしは「猛獣」その他も。(力への意志 第287番)』

    『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    最期に「非倫理的な行為を推奨してるわけではないよ」というニーチェの言葉も引用しておきます。

    『自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)』

引用返信/返信 削除キー/
■32044 / inTopicNo.72)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/07/30(Sun) 11:32:01)
    2023/07/31(Mon) 20:50:51 編集(投稿者)
    2023/07/30(Sun) 11:55:43 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。おはようございます。今回は少し質問がありますので、お時間のある時にでも宜しくお願いします。

    No31313

    > あと実践的な人生哲学としてはニーチェと仏教の複合体(劇薬であるニーチェを仏教で中和するというかなんというか、うまく言えませんが)です。

    ここで表現されている「劇薬であるニーチェ」という事なのですが、ニーチェ哲学の自らの生に対する全肯定の思考方法の事を、パニチェさんは劇薬と仰っているのでしょうか?

    私自身は、多くの専門的な哲学者の思考の世界の事はほぼ知らず、ネットでつまみ食いをする程度の知識ですので、ニーチェに関しても何が劇薬なのかが分からないのですね。

    今回は、この件を宜しくお願いします。
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